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新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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2006年 09月 23日 ( 2 )

平成18年9月23日

 九月六日、悠仁様ご誕生の日、テレビを見ていて印象的だったのは、何と言っても、北海道御訪問中の天皇皇后両陛下の、かつて見たこともないような笑顔。紀子様の「行って参ります」「帰って参りました」という凛としたお言葉。これは国民共通の感覚だと思います。
 ところで、私が個人的に感動したのは、男系維持の大切さをずっと力説してきた八木秀次氏がテレビ朝日に出演中、コメントを求められて、「一国民として大変嬉しく・・・」と言いかけて、感極まって声が震え、涙声になるのを止めようとして絶句した姿でした。八木氏が女性・女系天皇容認反対を唱え出した当初は、保守派の中でも「素人が何を言う」「また、変なことを言い出した」といった扱いで、すぐに賛同してくれる人は少なかったといいます。
 この問題で、毅然たる態度を貫かれた八木氏でしたが、おそらく、心の中では様々な葛藤があったのではないかと思います。しかし、結局、日本の神々は八木氏の言論を祝福されました。その感激と感謝。八木氏の胸を突き上げた感情を私はそんなふうに想像しています。
by nitta_hitoshi | 2006-09-23 08:47 | 日記
 九月一日発売の『正論』十月号で、三重県の公立中学校の教諭である渡邊毅氏が「実名」で日教組による偏向教育の実態を紹介し、批判している。渡邊氏は本紙の「やまびこ」欄の執筆に加わっていたこともあり、ご記憶の方もおいでかと思う。その渡邊氏が、産経新聞本年五月の全国偏向教育度調査と、それに触発された松浦光修氏の本紙への投稿(六月二八日「無惨やな神の御もとの教育界」)を真剣に受けとめられて、身を危険にさらして、日教組解体と教育改革の必要性を訴えられた。その勇気に深く敬意を表するとともに、憂いをともにする方々のご支援を心からお願いする次第である。

 三重県の日教組(三教組)が強力であることは関係者の間ではつとに有名なことだったそうだが、一般人にとっては、伊勢神宮の御鎮座地でもあり、皇學館大學出身の教員も多いはずであるから、まさかそんなことはなかろうというのが、なんとはなしの思いだったのではあるまいか。ところが、実態はそうではなく、教育正常化のために努力されて来た人々も、努力の甲斐なく、「県民性だからしかたがない」と半ばあきらめているというのが本当のところのようである。その上、大人しくしている内に皇學館大學出身の教員の間にも日教組的な雰囲気が浸透し、公然と「日の丸」を掲揚することをはばかるような空気が醸成されているという。隠れている内に、隠さなくてもよい場でも、隠してしまうような精神的傾向が身についてしまったのだろう。こうした空気に抵抗することは至難のわざである。

また、自らが生活の糧を得ている場所で、もっとも生活に密着した場所で、改革を提唱し、運動を展開することは極めて大きな精神的苦痛を伴うものである。このことは、自分の身に引きつけて考えてみれば、どなたでも容易に想像のつくことであろう。人間の心理としては、改革運動を行うにしても、自分の実生活の場から出来るだけ離れたところでやりたいというのが本音ではあるまいか。生活がかかった、しかも自分の短所をよく知っている人々の前で改革を唱えることは真に勇気のいることである。いや、嘲笑も孤立無援をもいとわぬ蛮勇がなくしてはできないことである。

 けれども、渡邊氏は単なる蛮勇の徒ではないし、ましてや軽薄な激情家でもない。むしろ、沈思熟考の人である。そのことは、渡邊氏が最近自費出版された著書(『日本の近代と教育』)を一読すれば明らかである(この著書については、いずれ本紙で紹介されると聞いている)。しかも、単なる思考の人ではない。それを実践教育に応用できる人であり、その教育者としての感化力は、三教組ですら、しぶしぶながら認めざるをえなかった。三重県下の新聞各紙の地方欄ですでに紹介済みのことであるが、渡邊氏は、情緒障害と精神薄弱とをあわせもつ生徒を指導して、彼の潜在能力を見事に開花させた。その業績が評価されて、本年一月に、三教組が運営している三重教育文化研究所から、三重教育文化賞を授与されたのである。分別も能力もあり、十五年という教師生活を通じて教育改革の困難さも骨身にしみているであろう人物が、公然と日教組批判を行った背景にはどれほど深い思いが潜んでいるのか、御想像願いたい。

 いじめ問題などで、「集団の雰囲気に負けるな、正義を行う勇気を持て」と指導している教師は多いであろう。しかし、それを自ら実践してみせる教師は、どれほどいるのだろうか。出世などという「利」のために、「義」を犠牲にして恥じない。そんな教師がほとんど、それが現状ではなかろうか。生徒の勘は鋭い。生徒は教師の本音を見抜き、教師の真似をする。生徒は教師がすること以上のことは、決してしないものである。生徒の問題行動は、実は教師の心の姿をみごとに映しだしているのではないか。そう考えると、教育とは真に恐ろしいものである。絶えざる自己観察なくして教壇に立つことはできない。それを忘れて教壇に立ち続けている教師たち。渡邊氏の論文は、そんな人々に対する、身を挺した警告でもあろう。

神社界には、教育に関係しておられる方も多いことと思う。三重県以外の方々も、他人事とは思わずに、どうか御支援をいただきたい。三重は、神宮の御鎮座地であると同時に、日本武尊が命を落とされた地でもある。この地を覆う暗雲を吹き払うことは、並大抵のことではないであろう。そんなことが本当にできるのかどうかは分からない。ただ、はっきりしていることは、教育に携わる者ひとりひとりが、自らの心の中の叢雲を吹き払う決意をしない限り、教育の正常化などということはあり得ないということである(なお渡邊氏は、十月三日午後二時より津市のホテルサンルート津において、教育正常化について講演の予定)。
by nitta_hitoshi | 2006-09-23 07:20 | 新聞