新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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日本における宗教の「公共性」とは(2)


○「先祖とのかかわり」という軸を

 このような分析を踏まえて、今後の宗教教育の現実的な方向性を考えてみると、第二十回基本問題部会での阿部美哉・國學院大学長の意見陳述が参考になるように思う。阿部氏は、「宗教情操教育」は家庭や宗教団体に任せて、学校教育(特に公立学校)では、「宗教知識教育」を充実させることを提案している。ここで、注意しなければならないのは、阿部氏が、社会学者のデュルケムの説を引いて、「宗教は個人レベルに押し込まれるものではなく、公的な次元を含み、公的な存在を合理化するものである」としていることだ。このような立場から、「世界の諸宗教の神話、儀礼、教えの骨格」についての「知識」が教えられることになると、従来の宗教を国家をはじめとする公共団体から単純に分離しようとする考えは大きく修正されていくことになるだろう。

 たとえば、アメリカについて言えば、これまでのように合衆国憲法の修正第一條で政教分離が規定されているというような表面的な解説にとどまることはできず、大統領が就任式で聖書に手をおいて宣誓していること、連邦議会が定めた“In God we trust”(我々は神を信じます)の国家標語が国歌の中にも政府発行の貨幣の中にも明示されていること、あるいは議会や法廷での祈祷儀式や国旗に対する忠誠の誓詞の中に“全能の神”が登場すること等が、宗教についての「知識」として教えられることになるだろう。

 そうなれば、宗教と国家・社会との密接な関係、宗教の公共性などが視野に収められることになり、それは即座に“日本における宗教の公共性とは何か”という問いに繋がっていく。

 阿部氏は「宗教情操教育は家庭や宗教団体に任せて」と言いつつ、「道徳教育で取り扱う畏敬の念の教育は宗教の根幹であり、世界の宗教の基幹でもある。この畏敬の念について各宗教がいかなる表現形態をとっているかについて教育することは極めて大切である」とも述べている。私の理解が阿部氏の真意を正確に捉えているかどうかは分からないが、これを私は、対立が厳しくて意見集約が難しいであろう宗教教育の分野を避けて、すでに合意が成立している道徳教育の分野において、実質的な「宗教情操教育」を行ってはどうか、という提案であると受けとめた。

 ただし、その場合には、今の道徳教育の方針に新たな軸を一つ付け加える必要があるように思う。文部省編の『中学校学習指導要領(平成十年十二月)解説ー道徳編ー』を読むと、「道徳の内容」が「指導の観点」から四つに分類・整理されている。そこでは「1 主として自分自身に関すること」以外は、「2 主として他の人とのかかわりに関すること」「3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」「4 主として集団や社会とのかかわりに関すること」と、何れも「かかわり」(関係性)をキーワードとなっている。そして、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」は「3」の中で「自然とのかかわりを深く認識すれば、人間は様々な意味で有限なものであり、自然の中で生かされていることを自覚することができる。この自覚とともに、人間の力を超えたものを素直に感じとる心が深まり、これに対する畏敬の念が芽生えてくるであろう」と解説されている。

 このように、道徳を「かかわり」(関係性)の中で捉えようとする視点はすばらしく、現実に教育されれば、自主性や自己実現の強調がもたらす自由の濫用を抑制してくれることだろう。ただし、伝統的な日本人の「畏敬の念」の継承という観点からすると、軸が一本欠けている。それは、先祖との「かかわり」という時間軸である。これを補うならば、道徳教育が実質的な「宗教情操教育」となり得るに違いない。(了)
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by nitta_hitoshi | 2007-04-25 08:37 | 雑誌