人気ブログランキング |

新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

日本創業の原点・神武天皇(9)

(9)神武東征1

 さて、『日本書紀』が伝える神武天皇の物語は、「天下の主たる者」と定められた皇統の継承者が、どのようにしてこの地上に国家を建設したかを語る物語なのですが、ニニギノ尊は九州に降ってこられたわけで、日本の中心地に降りてこられた訳ではありませんでした。したがって、そこにとどまったままでは、御祖先の神々の御命令を実現した事にはならないのです。

 神武天皇はニニギノ尊から数えて四代目にあたられますが、十五歳で皇太子となり、アイラツ姫という日向の吾田邑(あたのむら)の国神の娘と結婚して、そこでタギシミミノ尊というお子さんが生まれられます。しかし、四十五歳の時に、御祖先の命令を実現するために日本の中心地へ移動することを決意して、お兄さんや子供達に東征の相談をされます。この時に神武天皇が述べられたとされているのが、「神武東征の詔」です。そして、人々の同意を得て舟で東征に出発されるわけです。

 それでは、神武天皇がどういう経路を通って大和に入られたかといいますと、まず日向から出発されて九州と四国の間の速吸之門(はやすいのと)というところを通られます。ここで珍彦(うずひこ)という神が現れて神武天皇に従います。この珍彦という神は椎根津彦(しいねつひこ)とその時名前を変えます。それから今の大分県の宇佐市にあたる宇沙に行かれます。続いて、筑紫の国の岡水門(おかのみなと)、それからさらに本州に入られて、広島辺りの安芸の埃宮(えのみや)に行かれます。それから瀬戸内海を通って、吉備の高島に宮を作られて三年間滞在されます。ここまではずうっと順調に進んで来られるのですが、大阪から上陸されてから多くの困難に直面されることになります。

 浪速国から河内国の白肩津(しらかたのつ)に進出されて、ここから生駒山を越えて大和に入られようとされますが、そこで待ち構えていたのが神武天皇最大の敵である長随彦(がすねひこ)でした。この長随彦と孔舎衛坂(くさえのさか)で戦って負けます。負けた上にお兄さんのイツセノ命が負傷される。そこで、蓼津(たでつ)というところまで退却されます。そして、相手が強力なのでこのままの進路では大和に入ることはできないと考え直して、紀伊半島を迂回して大和に入る作戦を立て、紀伊水道辺りの雄水門(おのみなと)を通られる。そして、紀国(きのくに)の竃山(かまやま)まで来た時にお兄さんのイツセノ命がお亡くなりになるのです。

 それから、名草邑(なくさのむら)に到着。さらに、紀伊半島の一番南から少し伊勢寄りに上がったところの狭野(さの)を越えて、熊野に入られる。ここで神武天皇は暴風雨に合われます。この暴風雨に合った時に、お兄さんのイナイノ命が海に身を投じて鋤持神(さいもちのかみ)になったと伝えられています。鋤持というのはサメの事です。また、もう一人のお兄さんのミケイリノノ命も常世郷(とこよのくに)に去ってしまわれた。つまりお兄さんたちは皆いなくなってしまったわけてです。

 ここの物語がちょっとおもしろくて、神武天皇御兄弟のお母さんとお祖母さんはいずれも海の神の娘でした。「私たちは海の神の子孫なのに、何でこんなに海は自分たちを苦しめるんだ」と嘆かれて、お兄さんたちはいなくなってしまったという言い伝えになっております。
by nitta_hitoshi | 2006-12-09 10:54 | 講演