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新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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語るに落ちた勝田吉太郎氏ー「大学の名誉のために一言」を吟味するー(2)

(平成12年5月中旬稿)


《どちらが“やりすぎ”か》

 まず、勝田氏は教職員を食わせていくために、私立大学の学長が如何に苦労しているかという話しから筆を起こしているのだが、その苦労話を聞かされた元大使で最近鈴鹿国際大学の教授になったという勝田氏の旧友の発言がのっけからとんでもない。
「大使の方が学長よりずっと優雅なポストだね」
一私立大学の学長ほどの責任感もなく“日本国の大使”を務めていたとは開いた口が塞がらない。このような人物を大使に任命した外務省は重大な人事ミスを犯したというべきだろう。

 次いで、勝田氏は“今まであんなに原稿を書いてあげたのに”とでも言いたげな威圧とも愚痴ともつかない言い回しで、八木氏の発言を掲載した『諸君!』編集部に対する当てこすりを述べ、それに続けて本格的な弁解をはじめるのだが、それがとりもなおさず『正論』六月号で私が指摘した「大学人は大学経営に支障が無いと経営者が判断する限りにおいて思想・言論・学問の自由を有する」という大学当局の本音の吐露になってしまっているのは皮肉である。

 勝田氏の弁解によれば、まず「久保先生の講義内容と方法に関して、学生たちからの苦情が私の耳にも達していた。それも随分前からなのだ。なかには口さがない連中が『久保先生は右寄りすぎる、大東亜戦争聖戦論者だよ』と言っていることも間接的に耳にした。だが私は、あえて久保先生を庇ってきた」という。当然だろう。京大教授当時に「反動教授」だとして、学生たちから糾弾を受けた経験を持つ勝田氏が、一部の学生の声を信じて、久保教授を見放したとすれば、それこそお笑い草である。それにしても「あえて」庇ってきたというのは、どういう意味なのだろうか。口さがない連中に「大東亜戦争聖戦論者」と批判されるような講義をするのは実は怪しからんことなのだが、とでも言いたいのだろうか。『日本は侵略国家ではない』(善本社)と題する本の編者を務めた経験もある勝田氏だが、この際、その大東亜戦争観を端的にご説明願いたいと思うのは私だけではあるまい。

 ついで勝田氏は、久保憲一教授が「『東京裁判』批判の映画『プライド』を学生たちに観るよう強く勧め、その入場券をレポート用紙の上に貼って提出した学生に『加点』するにいたっては、残念ながら『学問の自由』という大義を損なうものだと判定せざるをえなかった」と書いている。その理由は「私の解するところ『学問の自由』とは、異説を述べる自由をも許容するものでなければならない。教壇の上から学生に対して一定の思想と学説を強制するかのような講義方法は好ましくないと思うからだ」そうだ。

「入場券をレポート用紙の上に貼って提出した学生に『加点』する」というのは、“確かに少しやりすぎだ”と、私も思う。しかし、この程度の“やりすぎ”を口実にして、教授職から事務職へ降格することの方が“もっとやりすぎ”だろう。こんなことが罷り通れば、今後、事務職員に降格される大学教員が続出するにちがいない。なにしろ、自らが教育上好ましいと判断した教材を、学生に買わせたり、見せたりするのは、大学教員としての本来の仕事であるし、「何々を読んでレポートを出せば加点してやるぞ」というのも、成績が思わしくない学生を救済するための常套手段だからだ。久保氏が「『プライド』の内容を賛美するレポートを提出した者には加点し、批判した者は減点する」と言ったのならともかく、学長から「好ましくない」と思われる程度の授業方法をつかまえて、まるで鬼の首でもとったかのように「『学問の自由』という大義を損なうもの」だとまで大仰に断じてしまうのは、いくらなんでも言い過ぎであろう。むしろ、ここまで言を弄さなければならない勝田氏の方に何か後ろめたいものがあるのではないか、と感じてしまうのは私ばかりではないだろう。

 事実、“「プライド」鑑賞を学生に強く勧めたことが怪しからぬ”というのは、鈴鹿国際大学当局が後から取って付けた理由に過ぎない。久保教授が学生に鑑賞を勧めたのは一昨年の夏のことで、それにもかかわず、久保氏は、昨年十月一日に教授会の承認を得て助教授から教授に昇進している。勝田氏の言葉が真実ならば、勝田氏は降格処分に相当すると自らが考える事態が発生していることを知りながら、一旦は久保氏の教授昇格を黙認し、その後一転して事務職員への降格を認めるというダッチロールを繰り返していたことになる。

処分理由についての説明の最後で、勝田氏は「ついに久保先生を庇いきれない事態が発生した」と書き、それが「三重タイムズ」に掲載された県立の「人権センター」批判の一文だったとする。久保教授の発言は「どうみても、人権同和問題の重要性に関して鈍感かつ著しく慎重さを欠いたもの」だったのだそうだ。久保発言の内容については、後ほど紹介して読者のご判断を仰ぎたいと思うが、とりあえずここでは、勝田氏の同和問題に対する感覚について、問題提起をしておきたい。勝田氏が考えている同和問題に対する“敏感さ、慎重さ”とは、「君、部落問題は本当に怖いんだよ。彼らが大学に押しかけてきたらどうするのかね」という久保教授に対する叱責(平成十二年二月二十五日付「三重タイムズ」)から推測すると、同和関係団体をひたすら恐ろしい存在と感じ、とにかく押しかけてこられたら困る、といった感覚のようである。このようなセンスは、本当に、同和問題に関して持つべき正しい感覚なのだろうか。(つづく)
by nitta_hitoshi | 2006-10-17 07:23 | 不掲載・未発表