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新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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田中卓氏を批判せざるを得なかった理由

 この【追記編・欄外編】は、3月11日に、最後の一文を書いて終了する予定でした。ところが、東北太平洋大震災が発生し、その悲劇を前にして、なかなか更新する気になれませんでした。うまく言えませんが、「多くの同朋が不幸に苦しみ、国民が一丸となって国難に立ち向かわなければならない時に、特定の個人の批判にかまけていていいのだろうか」。そんな気持ちでした。それに、小林さんに対する批判は、もう言い尽くしました。
 ただ、最後の一文だけは、事情説明として、公にしておく必要があると思い、掲載することにしました。


『WiLL』平成22年10月号204頁で、小林さんは「新田は田中卓先生に直訴して皇學館に入れたんだろう。田中先生に認められる学問に集中しろ!」と書かれています。このことについて、おそらくは、小林さんが知らないであろう事実を述べて、【追記編・欄外編】を終わりたいと思います。

 私は早稲田大学の博士課程に在籍していた時に、皇學館大学に電話をかけて就職の希望を伝えました。その時応対して下さった事務局長が「それなら、学長に業績を送って下さい」と言われたので、当時学長だった田中卓先生に、就職希望の手紙に業績を添えて送りました。その後、一年ほどして、皇學館大学国史学科教授の鎌田純一先生から「会いたい」との連絡がきました。田中先生が、次の学長になられた谷省吾先生に私のことを伝えて下り、谷先生が神道研究所の助手として私を推薦して下さったからでした。こうして私は皇學館に就職することができました。私は、そのことに深く感謝し、いつか田中先生に恩返ししたいとずっと思っていました。

 やがて時がたち、詳しい経緯は省きますが、八木秀次さんのお陰で、私は論壇で発言できるようになりました。平成15年のはじめころだったと思いますが、その八木さんと高森明勅さんと私の三人で、梅原猛氏を批判するという鼎談が『諸君!』で企画されました。その鼎談の後の懇親会で、『諸君!』の編集長から、「戦後の保守運動を回顧できるような人はいないだろうか」という話が出ました。そこで、私は、いまこそ田中先生に恩返しできる機会だと考えて、こういう趣旨のことを言いました。
「中央の論壇ではほとんど知られていませんが、思想堅固に活動されてきた古代史の大家で田中卓という先生がおられます。この方に、書いていただいてはどうでしょうか」。

 この私の提案に、八木さんも、高森さんも賛成した下さったので、私が仲介役となって、『諸君!』編集部と田中先生とを伊勢でお引き合わせすることになりました(ちなみに、この鼎談は『諸君!』の企画しては没となりました。しかし、『正論』が注目して下さったお陰で、拙論「梅原猛氏の「日本学」に異議あり!」が平成15年5月号に掲載されました)。

 引き合わせの結果、田中先生の「祖国再建」の連載が決まり、先生はそのことを大変喜ばれて、連載企画案を私にファックスで送ってこられました。その時は「これでようやく少しは恩返しができたかな」と嬉しく思いました。

 ところが、「祖国再建」の連載が終盤にさしかかったころ、「皇室典範に関する有識者会議」が発足し、田中先生は連載の最後で、その報告書を支持する論文「女系天皇で問題ありません」(『諸君!』平成18年3月号)を書いてしまわれたのです。その発表時期は、状況的に見て最悪で、女系容認の皇室典範改正案を小泉内閣がまさに国会に上程しようとしている時でした。その法案に保守の古代史の大家がお墨付きを与えたという形になってしまったのです。

 これは、私としては黙っていられない事態でした。黙っていれば、皇學館は全学あげて女系論賛成だと誤解されかねません。國學院の先生が田中先生を批判されたら、皇學館対國學院という本質とは関係のない対立図式で語られることになりかねませんでした。したがって、どうしても、皇學館の内部から批判の声が上がる必要があったのです。

 しかし、それでも、田中先生が全国的な論壇で影響力を発揮するという事態になっていなければ、私は批判の矢面に立たなかったかもしれません。当時、私以上に明確に「男系」を主張していた同僚の松浦光修氏に批判を「お任せ」して、田中先生との直接対決は回避したかもしれません。批判したとしても、神社関係の新聞や雑誌の中でのことに限定していたと思います。
 ところが、田中先生は政治家にも影響力がある『諸君!』という全国的なオピニオン誌に論文を書いてしまわれた。しかも、その道筋をつけたのが私だった。その対処を他人にお願いしたり、押しつけたりするわけにはいきません。そのような抜き差しならない事情で、私は恩人と全国誌で対決せざるをえなくなったのです。
 これは傍目からみれば喜劇なのかもしれませんが、私にとっては、今でも忘れがたい痛恨事なのです。
by nitta_hitoshi | 2011-03-15 21:14 | 追記・欄外編