新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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『史』平成16年1月号

○絶対神的な天皇像の由来

 近代日本の国家と宗教との関係については、いまだに「現人神」「国家神道」という誇大妄想が幅を利かせている。“明治以降、絶対神的な天皇像(「現人神」)が国民に教え込まれ、それによって国内的な搾取と対外的な侵略とが正当化された。その狂信的な天皇崇拝を根拠づけたのが神道で、神社は国教とされ、国民には神社の崇敬や参拝が強制された(「国家神道」)”というのだ。

 地域的にも、身分的にも、つまり思想的にバラバラだった人民をまとめあげて、ひ弱な日本を強い近代国家に変えていこうとしている時に、そんな乱暴な事ができるわけがない。できたとしても、長続きするはずがない。そういう常識的な見方に立って、私は『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP研究所)を書いた。ところが、対立する学者の目を意識しすぎたためか、「むずかしくて、よく分からない」という声を時々耳にする。そこで、史料に基づいた証明過程を省いて、「要するに、どういうことだったのか」という大まかな筋道だけを紹介してみたい。

まず「現人神」についてだが、天皇を絶対神的な、唯一絶対の存在だと見る思想が、明治維新以来ずっと国民に教え続けられた、という事実はない。そんな思想が登場するのは明治四十五年以降のことで、教科書に載るにいたっては昭和十六年のことにすぎない。

 そもそも、多神教的な神道の立場から絶対神的な天皇像が出てくるわけがない。絶対神的な天皇像というのは、加藤玄智という宗教学者が、外国人にも分かるように、キリスト教的に模して日本人の尊皇心を説明しようとしたことに由来する。それが昭和に入ってから社会に広がっていったのは、共産主義という強烈な国家否定、天皇否定のイデオロギーに対抗しなければならなくなったからだった。

 また、神武天皇の建国伝承の中に「日本による世界の統一」という理想を見出したのは、田中智学という日蓮主義者で、彼の造語である「八紘一宇」が世間に広まり、政府がそれを使うようになったのは、これまた昭和に入ってからのことで、ブロック経済圏の設定が世界の潮流となったためだった。

つまり「現人神」も「八紘一宇」も、伝統的な神道思想に由来するものではないのである。したがって、近代を通じて神社だけが特に優遇されたとか、その崇敬や参拝が法的に強制されたという事実もない。昭和六年の満州事変以降、信教の自由を理由にして集団参拝を拒否することが、事実上できなくなったのはたしかだが、それは非常時の意識が高まり、加藤や田中の影響を強く受けた軍の発言力が増したからだった。要するに、狂信的な天皇崇拝を植え付けるための装置としての「国家神道」など、存在しなかったわけである。

○キリスト教徒の教育勅語観・憲法観

それでは、一部の人々の間で、「国家神道」の経典のように言われている「教育勅語」とは、どういうものだったのか。それは、明治二十二年の明治憲法の発布によって参政権を与えられた国民に必要だと考えられた徳目を列挙したもので、決して、天皇を「現人神」として信仰させようとの趣旨から出されたものではなかった。起草に当たった井上毅は、「教育勅語」が国民の思想に介入するものだと思われたり、特定の宗教を押しつけようとするものだと誤解されて、不信や不満を呼び起こすことのないように、細心の注意を払った。だからこそ、発布された勅語に対して不満をもらした宗教家はなく、国民からも等しく歓迎されたのである。

 それでは、何故、今日、「教育勅語」に対して、あたかも思想統制や信仰強制の文書だったかのように言う者がいるのだろうか。ここから先は、本では書かなかったことだが、おおよそ二つの理由が考えられる。

 一つは、歴史を見る時に、その時、その場の事実や、過去の人々の感じ方・考え方よりも、現在の自分の思想やイデオロギーの方を真実だと錯覚している人々がいるということである。例えば、“キリスト教信仰と天皇崇敬とは原理的に矛盾する。だから、天皇中心の憲法や教育勅語はキリスト教を圧迫するもので、キリスト教徒は抑圧を感じていたハズだし、感じていなかったとすればそれはおかしい”という具合である。

 しかし、ちょっと考えてみれば、これは奇妙な考えで、例えば、今の私にとった大切なのは、今の私の感覚で、百年後の誰かさんの判断ではない。百年後の人が、「実は君は抑圧されていたんだよ」と言ったとしても、今の私がそう感じていなければ、私は抑圧されていない。それが、まっとうな歴史感覚というものだろう。

 そういう観点からすれば、まず確認し、重視しなければならないのは、明治憲法や教育勅語の発布を、当時のキリスト教徒がどう受け取り、どう反応したか、ということだろう。実は、彼らは、帝国憲法によって信教の自由を与えられたことを喜び、明治天皇に深い感謝の念を懐くとともに、キリスト教と教育勅語の一致を心の底から確信していた。さらに、日清・日露の戦争においても進んで協力した。この点については、日本のキリスト教史に詳しい土肥昭夫・同志社大学名誉教授の言葉を、次に引用しておこう(『近代天皇制の形成とキリスト教』新教出版社)。

 キリスト教徒は憲法発布にあたって各地で祝賀会を催した。「この祝賀会出席者に共通な心情は、明治維新当初禁制であったキリスト教が約二○年でその信教の自由を得たという喜びと感動であった」(二四六頁)
「その立場は違っていても、彼らはひとしく〔教育〕勅語を発した天皇に限りない畏敬の念をおぼえ、その勅語を金科玉条のようにうけとっていた」(二八五頁)
「そういう彼らにとって、キリスト教は天皇制国体に合致しないとか、臣民道徳に衝突するなどいわれても、解しかねることであったに違いない。その非難攻撃を断ち切るためには、単なる理論上の反駁のみならず、実践的活動によってその不当性を明らかにし、天皇制国家におけるキリスト教の有効性を示すことを考えた。日清戦争はこの事のための絶好の機会となったのである」(三二九頁)
「彼らは情況に促されて止むを得ず行ったというよりも、天皇制下における自己の位置と使命をわきまえ、自発的にこのような言動をした。それは彼らの中に自生的に潜在していた天皇・天皇制意識の発露と考えられるのである」(三三二頁)

 事実よりも観念の方を重んじてしまう知識人はかつてもいた。しかもその一人が、教育勅語の半ば公的な解説書を書いた東大教授の井上哲次郎だったことが、教育勅語に対する誤解を、後世までも残す結果になってしまった。井上は、キリスト教は、日本の国体と原理的に相容れないとして、教育勅語を引き合いに出してキリスト教を攻撃し、それが「教育と宗教の衝突」と呼ばれる論争にまで発展してしまった。明治二十年代半ばのことである。

 この井上哲次郎の態度は、明治憲法・教育勅語の起草者である井上毅の意図や配慮をまったく無視したものだった。それと同時に、彼は当時のキリスト教生の実態にも無知だった。再び土肥昭夫氏の言葉を引用しよう。

「多くのキリスト教指導者は、井上たちのキリスト教攻撃を誤解とし、多少の相違はあるにせよ、キリスト教が勅語の唱える臣民道徳に合致した宗教であることを弁明し、それを実践していった。(中略)もし井上らが先入観や偏見を持たないでキリスト教系の雑誌や新聞の論説を読み、教会やキリスト教系学校の活動を正確かつ公平に調査したら、果たして自らのキリスト教観を持ち続けることができたであろうか、とさえ思われるのである」(三三一頁)

 ところが、不思議なことに、現代の歴史家やキリスト者の中には、当時のキリスト者の言動よりも、むしろ井上哲次郎の観念論の方に共感を覚え、彼らの弁明を批判的に記述する者が多い。自分の価値観に照らして歴史を否定的に評価することは構わないとしても、当時にあっては、天皇とキリストの教えとは、どちらも不可欠で、しかも両立可能なものだと考えられていた、という事実だけは読者に伝えるべきである。何故なら、そのような当時の常識を前提として、憲法も教育勅語も起草されていたからである。そこを覆い隠して、憲法や教育勅語を批判することは、歴史に対する恣意的専制以外のなにものでもない、と言わなければならない。
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by nitta_hitoshi | 2007-07-03 11:05 | 雑誌