新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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『修親』(平成15年4月号)

「『修親』という雑誌を編集している者ですが、私共の雑誌にご執筆いただけないでしょうか」と、電話がかかってきたのは昨年[平成14年]十二月のことだった。

「今どき『修身』などという名を冠した雑誌があるのか? ちょっと、あやしいな?」と、とっさに私は考えてしまった。しかし、よく聞いてみると、自衛隊幹部の修養と親睦のための雑誌だということだったので安心し、執筆をお引き受けして、さて、何を書こうと考えていると、自分が「修親」を「修身」と誤解し、それを「ちょっと、あやしい」と感じてしまった理由が気になり出した。

 私が勤務している皇學館大学は世間的には保守の牙城のように思われていて、そういう目からみると、神道学科に席を置く私などはさしずめ生粋の国家主義者ということになるらしい。しかし、そう見られる私自身の中にさえ、戦前の「修身」教育を「あやしい」と条件反射的に感じてしまう感覚が内蔵されているのである。

 これは決して小さな問題ではないだろう。何故なら、この感覚こそ、その基礎となった「教育勅語」や、さらに発展して、「道徳教育」そのものを否定する言論や行為につながっていると思えるからだ。さらにそれは単に過去の出来事についての解釈につきるものではなくて、今日の「教育基本法改正」「首相の靖国神社参拝」「国立慰霊施設の建設」といった問題にも大きく関係している。

 となれば、我々戦後教育世代の心の中に無意識の内に組み込まれてしまっている戦前の道徳教育に対する先入観を、事実に照らして検証してみることが必要だろう。気がついてみると、私が近ごろ上梓した『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP研究所)は、その検証作業でもあったように思える。

 そこで、拙著の内容をご紹介したいところだが、とてもこの限られた紙数の中では無理なので、詳しくは直接読んでいただくことにして、ここでは拙著の執筆過程で明らかになった事実に照らして、明らかに誤りであると断定できる最近の議論を取り上げてみたい。それは、かの有名な梅原猛氏が「教育勅語」「靖国神社」そして「旧日本軍」について語っていることである。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-03-31 07:39 | 雑誌
(「神社新報」平成15年2月3日)


 「過去の歴史に学ぶ」などということを実は本気で考えたことの無い人々が書いた文書。自分たちの思い込みを真理だと勘違いしている人々がまとめた作文。それが「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(追悼・平和懇)が昨年十二月に公表した報告書である。

○明白な事実をごまかすいかがわしさ

 この作文はまず、歴史をではなく、現在の明白な事実をごまかすところから筆を起こしている。

「なぜ、今、国立の追悼・平和祈念施設を必要とする時期が来たと考えるのであろうか」との問い、それは“日本をめぐる内外の環境が大きな変革期”にある中で“日本が平和を積極的に求め行動する主体であることを世界に示す好機”だからであり、若い世代に“「平和国家」日本の担い手としての自覚を促す節目”であるからだと答えている。嘘である。

 一昨年八月の小泉首相の靖国神社参拝に対して、中国・韓国から激しい批判が沸き上がり、これに対処するために、内閣官房長官の諮問会議として「追悼・平和懇」が設置されたことは誰でも知っている事実である。「なぜ、今」なのかとの問いに答えるとすれば、この明白な事実を無視することはできない。にもかかわらず、それをごまかすところから筆を起こしているところに、そもそもこの報告書のいかがわしさが滲み出ている。

○祈念は宗教行為ではないと断定する非常識

 この報告書は、国を挙げて「追悼・平和祈念」を行うための「国立の無宗教の恒久的施設」が必要である、と主張している。「追悼・祈念」を行う施設が「無宗教」、すなわち「宗教ではない」というのは奇妙な感覚だが、それは二つの理屈によって正当化されている。

 一つは、「この施設における追悼は、それ自体非常に重いものであるが、平和祈念と不可分一体のものであり、それのみが独立した目的ではない」というものである。つまり、「追悼」は宗教行為だが、「祈念」は宗教行為ではなく、その両者を併せると非宗教行為になるというのである。宗教と非宗教を足すと非宗教になるというのは驚くべき主張だが、それよりも「祈念」を非宗教行為と断定する根拠は何なのだろうか。

 本紙の平成十四年五月二十七日号に「国家が捧げる祈り」と題して、米ワシントン・ナショナル・カテドラルについての記事が掲載されていた。この記事の中で、カテドラル側は「『追悼』は必ずしも宗教や祈り、あるいは精神性に基づく必要はありませんが、『祈り』は宗教的行為以外の何ものでもありません」と主張していた。「追悼・平和懇」の報告書とは正反対の見解である。

 このような見解のあることを無視して、「何人もわだかまりなく」追悼・祈念できる施設を創ろうというのだからお笑いである。

○歴史に学ぶ姿勢の欠如

 ところで、戦前の日本人の国民道徳の支柱をなした「教育勅語」は、特定の哲学や宗教に偏らないことを旨として起草され、当時の多くの国民から支持された。それにもかかわらず、今日では、この勅語を特定の思想や宗教に偏ったものであったと主張する論者が跡を絶たない。ある時代に圧倒的に国民に支持されていた教育勅語についてさえ、時が経てば異論百出の有様である。

 まして、現在ただ今の時点でさえ国内に多くの異論が存在し、必ずしも外国の感覚とも合致していない施設を「非宗教」だと強弁して政府に建設させようなどというのは、全く歴史に学んでいないとしかいいようがない。

○姑息な言い逃れによる論理矛盾

 報告書が「追悼・祈念施設」を宗教施設ではないとするもう一つの理由は「死没者一般がその対象になり得るというにとどまり、それ以上に具体的な個々の人間が追悼の対象に含まれているか否かを問う性格のものではない」というものである。

 追悼・祈念の対象が“具体的でない”、つまり“曖昧だから”宗教施設ではないというのもへんてこな理屈だ。

 しかしもっと問題なのは、この文章の直前で「日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をした者の中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない」と書かれていることである。

 特定の理由によって追悼対象とならない人々の存在を認めるならば、誰がそれに当たるのか、当たらないのか、それこそ具体的に個々の人間を特定しなければならない。「対象に含まれているか否かを問う性格のものではない」などとは言えたものではない。

 要するに、このように単純な論理矛盾に気付かないほどに、この報告書は、追悼対象者に対する誠意に欠けているということなのだろう。
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by nitta_hitoshi | 2007-03-28 11:49 | 新聞
寒気立つ現場の実態を鋭く告発(『正論』平成15年1月号)


「だって、先生が『ピルを飲めば絶対大丈夫』って言ったんだもん」《親だけが知らない衝撃の実態をレポート!》とは、本書の「帯」の言葉である。この帯だけで、世が世なら発禁処分、どこかよその国ならば「有害図書」に指定されてビニールをかけられてしまいそうだ。ところが、本書の内容はいたって真面目である。『教育黒書』というタイトルから予想される通り、日本の教育現場の実態を鋭く告発したものではあるのだが、単なる暴露本ではないし、かと言ってお堅いだけの論文集でもない。というのも、そこには切なる願いと、巧みな戦略とがあるからだ。

 日本に先立つこと約三十年前、英国の教育は教職員組合の専横や反国家・自虐教育の横行により、学力低下や校内暴力の頻発といった危機に見舞われた。この時、学者・保護者・教師が立ち上がり、教育荒廃の実態を告発した本を次々に出版して、国民に教育の荒廃を訴えた。この市民運動に応えたのが一九七九年に誕生した保守党サッチャー政権で、「一九八○年教育法」の制定を手始めとして、以後次々に教育改革策を打ち出していった。編著者である八木秀次氏の序文によれば、本書刊行の意図は、「教育黒書運動」と呼ばれたこの英国の先例に倣おうとするものである。

 多彩な執筆陣による掲載論文の全容を、この小論で紹介することはとてもできないので、本書の特徴を一つだけあげれば、「ジェンダーフリー教育」批判ということになろうか。男女平等教育と性差解消教育との恐るべき違いについての蒙を啓く意味で、八木氏と山谷えり子衆議院議員との対談は、先ず目を通すべきものだろう。

 そして、この議論の各論として、ジェンダーフリーが“家庭科教科書”に及ぼしている害毒を分析してみせたのが、八木氏の「お父さん。お母さん。ご存じですか? 男女共修『家庭科』ではこんなことが教えられている!」と、高橋史朗氏の「ファロスを矯めて国立たず」である。

 さらに、三重県公立中学校教諭・渡邊毅氏によるジェンダーフリー“性教育”の詳細な実態報告も注目に値する。「すてきなセックス、最高のふれあい」(小学校)や「性を楽しむために低用量ピルをゲットしよう」(女子高校)などと題する授業の内容は、あまりのことに、にわかには事実だと信じがたい。

 この他にも、ゆとり教育、人権教育、国旗・国歌教育、原発教育など、まだまだ多様な批判的報告がつまっている。

 今日の教育について何かしらの疑問や不満を感じながらも、学校という閉ざされた空間の外側でもどかしい思いをしてきた人々にとって、本書は大いなる助けとなることだろう。何故なら、各地における情報公開法の整備によって、本書類似の情報は一般市民にも入手可能となり、誰でも動かぬ証拠をつかめるようになってきたからだ。

 私としては、本書が一人でも多くの人の手にするところとなり、次々に類書が刊行されて、教育の危機に対する国民に認識が深まるとともに、その危機感をしっかりと受け止められる保守政治家が現れることを期待したい。この国と子供たちの未来のためにー。
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by nitta_hitoshi | 2007-03-23 09:21 | 書評
神社新報(平成15年2月24日)

文に毒を含ませる達人の歴史評論

 松浦光修氏は名文家である。それもただの名文家ではない。文に毒を含ませる達人である。その毒は、偽善を積み重ねてきた安保世代の老人達や全共闘世代の人々に対しては強烈で、一生心に後遺症を残すような性質のものであるらしいが、松浦氏と志を同じくする者には魂の癒しとなり、若い世代にとっては解毒剤にもなるらしい。

 その松浦氏がこれまで書きためてきた毒、ではなくて歴史評論を一冊にもとめられたのが本書である。名付けて『やまと心のシンフォニー』という。ご本人は当初『日本思想の詩[うた]』という題にしたかったようだが、「思想」も「詩」も、今日では全く本が売れない分野のトップ・テンに入るらしく、編集者にあっさりと拒否され、このような柔らかい題になったのだそうだ。

○文学と歴史学二つの背景

 書きためた時期は昭和六十二年から平成十四年までの十六年間、扱っている時代は神武天皇から現代までに及ぶ。通常このように広い時代にわたる評論は、裏付けのない奇抜な思いつきの羅列か、退屈な通史に堕する危険性が高い。本書がそれを免れて、豊かな発想と確かな実証との巧みな組み合わせに成功しているのは、おそらく、著者が幼い頃から学校の勉強そっちのけで続けてきたという文学作品の読破と、大学院以来地道に実行してきた原史料の発掘調査を旨とした着実な国学研究という、二つの背景があるからに相違ない。

 平安時代に現代の鏡を見る「芳香の影」、近世民衆の尊皇心を論じた「菊の下草」、大東亜戦争をアジアの視点から語った「マカオの月光」、徳富蘇峰と平泉澄という二大巨人の感応を“「悲劇」のうちに見られる「貴い精神」”に見出した「二つの史魂」など、本書には、簡にして要を得、明確にして魂に響く物語が満載されている。

○若者の渇きに応える書

 発売後まだ日も浅いが、すでに学生たちの中には、絶大な影響を受ける者が出始めており、次のような感想が寄せられているという。「喜びに頬は濡れ、何度読み返しても嗚咽は止まらない」「英霊にまつわる一連の話は読んでいるうちに涙が出てきて止まらなくなった」「この章〔マカオの月光〕を読み、私はとても嬉しく思いました。戦後の歴史教育を受けて来た私たちには、第二次世界大戦における日本は野蛮極まりない国であり、また侵略し、女を犯す日本兵には悪鬼さながらのイメージをもっていました」「感銘を受け、感泣を禁じえませんでした」。

 何やら小難しいが中身のない学問らしき講義や、要するに祖国や祖先を貶めたいだけの説教に辟易している若者たちは、素直に祖国の大地に根を張り、力強く生きていける明るい物語を欲しているようだ。本書が、そのような若者の渇きに応えつつあることは誠に喜ばしいが、しかし、よく考えみれば、それは残念なことでもある。

 学生たちが、これほどまでに感激し、回心しているということは、裏を返せば、心にしみる物語にこれまでまったく触れる機会がなかったということだろう。これが他大学の学生ならまだしも、「祖国愛の精神を教育培養」することを旨とする、我が皇學館大学にしてそうなのである。偉そうに評論する前に、私自身よくよく襟を正して、本書の語るところに謙虚に耳を傾けるべきなのであろうと深く反省した。
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by nitta_hitoshi | 2007-03-19 10:51 | 書評
[「吉野熊野新聞」平成14年10月3日]

 前回の捕捉をすると、今日のアメリカでは性教育の見直しも進んでいる。連邦政府は一九九六年に「結婚まで性交渉を自己抑制する」教育プログラムの推進に助成金として年間五千万ドルを支給することを発表し、ブッシュ大統領は今年二月にこの助成金を一億三千五百万ドルに引き上げることを提案した。また、多くの州議会においても、公立学校の性教育においては自己抑制を基本とすることを明記した法律が可決されている。

 このような見直しが進んでいる背景には、フェミニズムなどの過激思想によって大きく歪められてしまったアメリカ社会の現実がある。それがどのようなものであるのか、評論家の松居和氏が自民党の少子化問題小委員会で行った講演を要約してみよう。

 アメリカでは三人に一人の子どもが未婚の母から生まれる。家庭崩壊の結果、頼れる親戚がいないため、女性が女手一つで子育てをする。アメリカでは子どもの二十人に一人が一生に一回刑務所に入る。犯罪者の七割が母子家庭から出ている。子どもが18歳になるまでに40%の親が離婚するので、実の父親が家庭にいるなどという贅沢なことはもう誰もいわない。

 五年前に、二十一歳以下の未婚の女性が子どもを産んだら、生活保護費を支払う代わりに、政府が孤児院をつくって育てるという法案が連邦議会に提案された。孤児院に子ども一人を収容するのに年間400万円かかるが、囚人一人には1600万円かかるので、それよりはましだというのが理由だった。しかし、対象者全員を収容すると200万人の子どもを収容しなければならないことが分かって断念されたのだという。

 また、アメリカでは100万人の子どもが路上でホームレスとして暮らしており、そのほとんどが親に虐待されて家を出た子供たちだという。三年前の時点で親による虐待で重傷を負った子どもが、病院から報告されただけで五七万人。そして、なんと、五人に一人の少女が近親相姦で犯されるのだという。

 その原因について、松居氏は三分の一の男性が最初から子育てに関わらないという状況の中で、「親心」が育たず、ために、社会のモラルや秩序が崩れたのだと指摘し、「こんなのはもう人間社会じゃない。そういう国を我々は先進国と呼んでいるのです」とまで言っている。先進国の中で、奇跡的によい状態にある日本がどうして外国をまねようとするのか理解に苦しむらしい。

 松居氏は、“これ以上親を子供から引き離したら「親が親じゃなくなっちゃう」というのが心ある保育者多数の考えだ”と、保育所を増してもっと子どもを預けやすくしようとする日本政府の政策を批判する。このような講演を受けて、自民党少子化問題小委員会は対策試案をまとめ、その中で「性差を否定するような行き過ぎたジェンダーフリーなどの考えが少子化対策に与える悪影響を排除す」と明言した。(おわり)
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by nitta_hitoshi | 2007-03-15 09:05 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年10月2日]

 前回、昭和初期のソ連の様子について書いたが、近年では、西洋先進国においてもフェミニズム運動によって歪んでしまった社会の在り様を元にもどそうとする傾向が顕著になってきているようだ。その一例が女性の家庭への回帰である。

 イギリスでは静かな専業主婦ブームが起きているという。それは、長年にわたる女性の社会進出の結果、母親の仕事のために置き去り状態にされた娘達の中から、外で働く母親が女性として果たして本当に幸福なのかとの疑問を持つ人々が現れてきたかららしい。専業主婦ブームの火付け役となった団体に、「フルタイム・マザーズ(FTM)」という専業主婦の団体があり、その設立のきっかけは、「家庭にいる女性が劣等感を抱かなければならない社会風潮に我慢がならなかった」「専業主婦が自信を持てない社会は不幸である」「料金を支払って子育てを依頼し、自分は外に働きに出るのがよいとする世間のプレッシャーが母親に容赦なくかかることに疑問を感じる」等ということであったらしい(多賀幹子「キャリアウーマンが家庭に帰り始めた」『婦人公論』一九九九年七月号)。

 こうした女性の家庭回帰現象の中で、出産率も伸び始めたのだそうだ。だから、少子化問題についてフェミニストが主張している“女性の社会進出が進んでいる国ほど出生率が高い”というのは詭弁に過ぎない。そもそも、先進国で出産率が伸びているとはいっても、未だに一定の人口を維持するのに必要な数値にまでは回復しておらず、少子化問題を根本的には解決できていないというの現状のようだ(岡本明子「内閣府男女共同参画会議の恐るべき戦略」『正論』平成十四年十月号)

 また、アメリカでは、フェミニスト運動の中で否定されていった男女別学が再評価され、男女別学に戻した結果、生徒の学力を大幅に上昇させることに成功する学校があらわれてきた。それは、「思春期にさしかかった子供達を別学にすることで、男の子も女の子も他方の性を意識するエネルギーを、勉強といより建設的な方向にそそぐことができる」からであり、また「脳の研究で、男性は理数系、女性は言語に優れていることは周知の事実であり、男女別学で性差を補う授業をすれば成果があがるのは自明の理」だからだという。

 このような事実を前にして、「ブッシュ政権は三十年間の政策を逆戻りして、公立学校における男女別学級を奨励し、男子校・女子校を設立するための援助を惜しまないと発表した」。これらの事実を紹介したメリーランド大学講師のエドーワーズ博美氏は「アメリカが三十年かけて、ようやく気付いた誤りを、今、日本では男女共同参画名で繰り返そうとしている」(「脱・家庭崩壊社会への胎動」『正論』同前)と警告している。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-03-05 11:19 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年9月30日]

 この連載をここまで読まれた方は、ジェンダー・フリー社会を目指す人々は、家族を解体し、フリー・セックスを奨励して、一体全体どんな社会を創ろうとしているのか、と疑問に思われたと思う。八木秀次高崎経済大学助教授が「『男女共同参画』なんてカルトじゃないか」(『諸君』平成十三年一月号)という論文の中でこの疑問に答えてくれている。

 それによれば、「フェミニズム」という言葉を発明したのは十九世紀フランスの「空想的社会主義者」フランソワ・マリー・シャルル・フーリエである。フーリエは、家族を単位とする小農場経営こそが生産力の向上を阻害し、個人の自由を妨げる原因だと見て、家族制度を廃止して、各人が男女を問わず能力に応じて生産集団・生活集団を組織する「ファランステール」という「ジェンダー・フリー社会」を構想した。

 この社会においては、一夫一婦制は無意味となり、恋愛や結婚は従来の拘束から解放されて、いつでも解約可能な任意の結婚(つまり、スワッピングや雑婚)となり、子供たちは共同体の手によって育てられ、老人もまた共同体によって看護されることになる。男女とも同じ教育を受け、同じ経験を分かち合い、同じ職業の準備をするために、幼年時代からスカートとズボンという衣服で男女を区別することは避けられる。まさしく、「ジェンダー・フリー教育」そのものだ。

 このフーリエの構想は、共産主義の父であるマルクスやエンゲルスに受け継がれた。特にエンゲルスは、階級対立、支配・被支配の関係を男女の関係に当てはめて、家族は男が女を支配するための制度であるとして、女性解放のために、女性の社会進出の必要性を説いた。

 これらの思想を現実の政策として実施したのが、ロシア革命の立役者レーニンだった。彼は女性を家族制度の束縛から解放し、労働者として自立させるために、家事労働の共同化、保育所の設置、性の自由を奨励した。こうして見ると、「男女共同参画社会」=「共産主義社会」と言われる理由がよく分かる。また、かつては共産主義社会の実現を夢見ていた日教組が、ジェンダー・フリー教育に熱心な理由も理解できる。

 ところが、このレーニンの政策は大失敗して、ロシア社会は、堕胎と離婚の激増、出生率の低下、家族・親子関係の希薄化による少年犯罪の激増という事態に陥った。このために、ソ連政府は一九三四年にそれまでの家族政策を根本的に見直して、フーリエ以来の構想と決別し、家族を「社会の柱」として再強化した。すなわち、妊娠中絶を禁止し、離婚手続きを複雑化させ、子ども教育における両親の責任を重くした。家族が国家の基礎単位として重視され、女性は自由な市民としてよりは母として尊重されるようになった、というのである。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-03-01 20:36 | 新聞