新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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[「吉野熊野新聞」平成14年9月29日]

 ジェンダー・フリー=フェミニズム思想から見て結婚は人間にとって最も大切な性交の自由を束縛するものだと前回書いた。これを裏を返せば、「フリー・セックス」こそ人権の根幹だ、ということになる。したがって、最近は高校生の四割前後がセックスを経験し、未成年者の中絶が増加しているという事実を前にすると、道徳教育の強化によって未成年者の性行動を抑えようとするのではなく、安全なセックスの方法を教えようという短絡的な議論が幅をきかせることになる。

 この考え方を端的に反映したのが厚生労働省が所管する財団法人が中学生向けに作成した性教育教材『思春期のためのラブ&ボディBOOK』だった。コンドームの付け方を図入りで紹介したり、「コンドームによる避妊は失敗が多いんだ。失敗率12%」「ピルを飲めば避妊効果抜群」と、女子中学生にピルを飲むことを奨励したりと、まるでフリーセックスの指南書と見まがうばかりの内容だった。

 これに対しては、さすがに各地から非難の声が上がり、絶版・回収ということになったが、批判の声が出はじめた当初は、ジェンダー・フリー思想に毒された厚生省は「中学生に読んでほしいという立場は変わらない」(母子保険課)という態度だった。

 このパンレットの内容で、もう一つ重大なのは、「子どもをつくるか、つくらないか」「産むか産まないか」「いつ産むか」「どんな方法で産むか」、「これを決めるのはすべて『自分』」という記述である。これはジェンダー・フリー思想で強調される「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」という概念を解説したものである。これは、妊娠、出産そして中絶も、すべて自分だけで決めるべき女性の権利であるとの主張で、このような過激なフェミニズム思想を中学生に注入しようとしたわけである。

 ここでは、“女性の権利”という主張によって、生命の尊重(胎児の命)が平然と無視されている。恐ろしいことだ。ただでさえ、母体保護法という悪法の下で、戦後すでに一億人以上の胎児が闇から闇に葬られてきたと言われている。一億人という数は、大東亜戦争における日本人犠牲者の実に三十三倍にあたる。このような状況を論じて、作家の曾野綾子氏は、日教組が言うように「国旗が血塗られたのなら、それは戦後だ」と辛辣な皮肉を書いている。

 今でさえこのような状況なのに、母体保護法にある「配偶者の同意」という条件を外して、女性のみの判断で益々容易に中絶を行うことができるようになったらどうなるのか。中絶が増加する(=少子化の加速)のは目に見えているし、それよりも何よりも、性道徳の退廃、生命軽視の風潮に一層拍車がかかるだろう。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-02-27 15:20 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年9月26日]

 聞いて驚かれるかもしれないが、ジェンダー・フリー思想の根底には「家族制度否定」の思想がある。どうしてかと言えば、ジェンダー・フリー思想とは、すなわち、フェミニズム思想であり、婚姻制度(結婚)は「フェミニズムとは相容れない」というのがフェミニストの主張だからである。フェミニストを自称する上野千鶴子東大教授は、自由の根源は「身体に関する自由」「性的自由」であるにもかかわらず、婚姻制度は「性的自由を相互に封印するという契約を交わすこと」だと言っている。要するに、自由な性交渉を妨げる結婚制度は廃止しろ、というのである。

 さすがに、こんな事をいきになり実現しようとすれば、多くの抵抗が予想される。そこで徐々に、段階的に婚姻制度・家族制度の解体を実現していこうというのが、「体制内フェミニスト」と呼ばれる大沢真理東大教授の戦術のようだ。

 彼女がリーダーシップを発揮した平成八年の首相への答申「男女共同参画ビジョン」では、この点について三つの具体的政策が提案されている。
①夫婦別姓の早期実現。
②主婦に対する優遇税制の廃止。
③性別による偏りにつながるおそれのある各種慣行の見直し。

 国民に反対の多い夫婦別性を男女共同参画を理由として強引に実現し、家庭を守っている主婦を無理矢理社会に引き出すために優遇税制を廃止し、とにかく何でもかんでも男女の別は差別であると決めつけて、男女を敵対関係に持っていく。こうして、真綿で首を絞めるように、外堀を徐々に埋めるようにして、家族制度を解体へ導こうというわけだ。

 このような「男女共同参画」に含まれている家族否定の意図を敏感に察知して、“結婚には多様な形があってよい”と口当たりのよい家族解体論を宣伝する自治体もあらわれてきた。山口県宇部市の男女共同参画課が発行したパンフレットでは、「結婚のかたち」と題して、「婚姻届けを出しません」(民法第739条違反)、「別々に暮らしています」(同第752条違反)、「夫婦別姓にします」(同第750条違反)、「独身で生活しています」(非婚)などと、現行法違反を堂々と奨励し、少子化問題をまったく無視して非婚をすすめている。

 このパンフレットは宇部市の男女共同参画「人材養成講座」の修了生が作成したものであったことから、市民や市会議員から「市の公金で何を教えているのか」と一斉に批判の声があがり、宇部市が作成中であった「男女共同参画推進条例」を根本的に見直すキッカケになったという。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-02-18 22:27 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年9月27日]


 前回「ジェンダー・フリー」は過激な文化破壊思想だと書いたが、日教組は「ジェンダーフリーの教育を」というパンフレットの中で、それがあたかも“世界的な流れ”ででもあるかのように宣伝している。それは、熊野市の「男女共同参画ステッププラン」でも同じだ。しかし、はっきり言ってそれは“まやかし”である。なにしろ、「ジェンダー・フリー」の旗振り役であり、平成八年に首相に提出された「男女共同参画ビジョン」の理論的リーダーでもあった大沢真理東大教授自身が、「ジェンダーそのものの解消を展望するとは、ラディカルというに値する」、先進諸外国でも「ジェンダーからの解放まで志向するものはない」と明言しているのだ。

 この過激思想の下でどのような政策が強行されようとしているのか、ご紹介しよう。まず、文科省の委嘱で日本女子社会教育会(現、日本女性学習財団)が作成した子育て支援パンフレット『新子育て支援・未来を育てる基本のき』。そこでは、ジェンダーにこだわった否定されるべき子育ての内容として、次のようなものが列挙されていた

 女の子には「優しい、愛らしい名前」「節句の祝い:ひな祭りのお雛様」「プレゼントのおもちゃ:ままごとセット,お人形,お化粧セット」「習い事:ピアノ,習字,バレエ」「『○○さん』と呼ぶ」「『かわいい』とほめる」「礼儀正しく、言葉遣いは丁寧に」
 男の子には「スケールの大きい、強そうな名前」「節句の祝い:鯉のぼりと武者人形」「プレゼントのおもちゃ:ミニカー,グローブ,サッカーボール」「習い事:水泳,体操」「『○○くん』と呼ぶ」「『カッコいい』とほめる」「女の子には優しくしなさい」

 このパンフレットはさすがに国会でも問題視されて、民主党の山谷えり子衆議院議員が「あまりに行き過ぎ。いい意味での女らしさや男らしさまで否定する必要があるのか」と質すと、なんと男女共同参画担当大臣である福田官房長官が「正直言って賛成しない」と答弁したのである。一体全体、担当大臣ですら賛成しないジェンダー・フリー政策が政府の権威を借りて行われつつあるとはどういうことなのだろうか。

 ジェンダー・フリー論者が「らしさ」を否定する背景には、男女の違いは、社会的・文化的に押しつけられたものを除けば、あとは「程度の違い」に過ぎないという思い込みがある。彼らは、それが「科学的」な思想だと「信じている」ようだが、最近では、それを否定する研究成果が次々と発表されている。例えば、オーストラリアの心理学者であるスティーブ・ビダルフ氏は、自国での過去三十年余の少年少女を実質的に同一と見なす教育は上手く行かなかったとして、少年の健全な成長のためには「らしさ」を正当に評価する教育が必要であると説いている(『男の子って、どうしてこうなの?』草想社)。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-02-15 08:26 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年9月26日]

「ジェンダー・フリー」という言葉を御存知だろうか。知らないではすまされない。なにしろ、熊野市では、今年から実施される「男女共同参画ステッププラン」の中で「ジェンダー・フリー」の視点からの教育や子育てを進めることを宣言しているのだから。ところが、この「ジェンダー・フリー」というのは、実は恐ろしい文化破壊思想なのである。

 平成12年に「日本女性会議」が津市で開かれた時、一人の志摩の青年が誇らしげにおおよそ次のような発表したという。「自分たちの地域は昔から男女共同参画社会だった。夫婦で沖へ出て、夫は命綱を握り、妻が海へ潜って、共に生活を築いてきた」と。すばらしい話である。ところが、この発言ほど「男女共同参画」「ジェンダー・フリー」に対する「麗しい誤解」と「強烈な反論」を合わせもった例もめずらしい。

 何故なら、「ジェンダー・フリー」が目指しているのは、単に男女が共同して社会を築く状態を促進するということではないからだ。「ジェンダー・フリー」というのは、「男女の区別」そのものが「女性に対する差別」の原因である見て、男女の区別や役割分担そのものをを否定する思想なのだ。だから、先の例で言えば、男と女が交替で命綱を持ち、男も海にもぐらなければ、「ジェンダー・フリー」の社会とは言えないのである。

 それだけではない。男女を区別するということは、男が支配者で、女が被支配者である構造を維持するものだと見なされる。だから、男が海の上で綱を握り、女が綱をつけられて海に潜る、つまり、「男が上にいて、女が下にいる」「男が女に綱をつけて、それを握っている」などという構図は絶対に認められないものなのだ。

 このような極端な考えの裏には、女はこれまで男によって虐げられてきた哀れな存在だったという女性の歴史に対する否定的な見方がある。これによって、日本女性の伝統的な在り方、行動様式、美徳といったものが、すべて「差別の結果」として否定される。これは過去の日本女性に対する著しい侮辱だと私はかねてから思っていたが、先の青年の発言は、私の考え正しさを証明してくれているように思う。

 志摩の海女さんたちは、男の奴隷として海に潜ってきたのだろうか。日本女性は鵜飼いの鵜のように男に操られてきたのだろうか。そうではないだろう。基本的には、女性の特性と男性の特性をしっかりと見極めて、互いが尊重し合う中から、それぞれに役割を分担して、家庭や社会を築いてきたのではなかろうか。

 しかし、こうした考えは「ジェンダー・フリー」の視点からは絶対に認められない。つまり、「ジェンダー・フリー」というのは、日本女性の伝統的な姿勢を男に対する隷従だと決めつけて、その誇りを真っ向から否定する過激な文化破壊思想なのだ。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-02-09 10:04 | 新聞
[【史】平成14年9月号]


 七月の総会で私に理事という役回りが与えられた。なにやら複雑で、面倒なことも多くなりそうな任務をお引き受けしたのには、もちろん訳がある。

 私にとっての教科書改善運動は「つくる会」以前の方が長く、話は高校用歴史教科書『新編日本史』出現の時代に遡る。私はある偶然から、この教科書の編集についてやや詳しく見聞する機会を得、若干のお手伝いをしたりもした。思い出してみると、当時も中・韓やマスコミによって袋叩きにされたが、今と違って強力な支持者や応援団はほとんどいなかった。その中で、志ある諸先輩が黙々と圧力に抗して教科書を作り、検定を通過させ、山川出版社に「何故だ?」と思わせる程の採択結果を残した。その事情の極一部を知っているにすぎない私にとっても、それは感動的な出来事だった。

 その目から見ると、「つくる会」の運動は、確かに、新しい人々が新たな発想の下に始めたものではあるけれども、それが爆発的な展開を見せたのは、やはり背景にそれまでの先人の努力の積み重ねがあったお陰だと考えるべきだろう。その身近な歴史の継承を意識せずして、歴史教科書の改善などと言えたものではない。

そんなわけで、「つくる会」の運動がはじまった時、三重県支部の一会員として参加することにした。支部設立の時に、みんなで「会からのサービスを期待するのではなく、自らの責任で、自分のできることを誠実にやろう」と誓いあったが、これを生活に密着した地元で、顔と名前を出して実行することは、そう簡単なことではない。しかし、それを実行できる勇気ある人々が何人もいて下さったお陰で、三重県では私立学校二校の採択を勝ち取ることができた。

 そんな経験からか、ろくな活動もせず、成果もあげていないのに、仲間内の集会で延々と自分の歴史観などを述べる人を見ると嫌気がさす。「同じ事を敵の集会に行って言ってみろ」「その理屈で地域の人々や教育委員会を説得してみろ」などと言いたくなる。すこし話がそれてしまったが、積み重ねられてきた知られざる歴史に後押しされて、中央でも何んらかの貢献をしなければならないのかな、と思った次第である。
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by nitta_hitoshi | 2007-02-06 21:57 | 雑誌