新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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[『正論』平成14年9月号]

○“愚かなへつらい”を排除してこそ

 時あたかもワールド・カップ共催で日韓友好ムードが最高潮に達している中で本書は刊行された。想い起こせば、ベストセラーとなった前著『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』(同じく小学館文庫)の出版も、『新しい歴史教科書』の検定合格・採択をめぐって、中韓が日本政府に記述の修正を要求し、それを文部科学省が拒否し、怒った韓国が制裁措置を次々に発動する、といった時期だった。だから、状況だけから判断すれば、著者の勝岡寛次氏はよほど韓国が嫌いなのだろうと早合点してしまいそうになる。ところが、著者は、教育セミナーを毎年開催している日韓教育文化協議会(日本側代表は草開省三氏、韓国側代表は安長江氏)の日本側事務局長を務め、地道な相互理解に尽力してきた人物なのだ。ならば何故、タイトルを見ただけで日韓友好が破れてしまいそうな本を次々に出版するのだろうか。

 それは、真の友好を願えばこそ、“日韓・歴史教科書・併合”という、独立国家の国民同士の関係としては最悪の事態をもたらしかねない“愚かなきへつらい”を排除したいと熱望しているからのようだ。著者は、日本政府が進めている「日韓歴史共同研究」を様々な角度から検討し、それが如何に問題多きものであるかを次々に暴いていく。まず序章では、まるで裏取引でもあったかのように、昨年は拒否した韓国による修正要求にしたがって、文科省が今年は高校用『最新日本史』(明成社)を検定した事実を指摘し、第一章で「日韓歴史共同研究会委員会」設立に至る経緯と問題点を記し、第二章では過去に民間で行われてきた共同研究が、おおむね「日本による侵略」という歴史観のみを前提とした日本の教科書についての一方的検討でしかなかったことを批判している。

 次い第三章では視点を変えて、“日本も見習え”といわれるヨーロッパにおける教科書対話の実状を取り上げ、それがまだ「各国の記述の違いを自覚する段階」にとどまっているにもかかわらず、日本では国家を解消しようとする試みででもあるかのように意図的に歪曲して伝えられていることを指摘する。第四章では、歴史問題で韓国側が国益よりも学問的真理を優先できるとは考えられず、実質的に言論の自由の無い国との認識の共有などできるはずもないと主張し、さらにその理由を具体的に明らかにするために、第五章で日韓史上の様々な争点を挙げて解説している。現状では歴史「事実」の共有さえ不可能なのに、まして歴史「認識」の共有など出来るはずがないというのだ。

 著者は、観念的な説明に陥ることなく、常に証拠を挙げて、一つ一つの主張を具体的に裏付けながら議論を進めていく。読み進む内に、これまで漠然と感じてきた疑問に確かな根拠が与えらていく手応えを感じる読者も多いことだろう。愛国や友好の熱情ととは、このような形で昇華・凝固されるべきものなのだと感じさせられる一冊である。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-31 10:09 | 書評
[「神社新報」平成16年2月16日]


 すでに二月二日の本紙上で報道されている通り、私と松浦光修氏は、今年度の大学入試センター試験の問題についての質問状を、大学の事務局を通じてセンターに提出した。先頃、それについての回答があり、その趣旨は、世界史については“大半の現行教科書に載っているので問題はない”、日本史と現代社会については“現在検討中で、後日回答する”というものだった。

 回答についての私の具体的反論は、「新しい歴史教科書をつくる会」のホームページに載せたのでそちらを御覧いただくとして、本稿ではこの問題の本質を、私がどのように見ているかについて述べてみたい。それを端的に言えば、体制内に入り込んだサヨク分子による、反国家・反伝統思想の「上からの強制」ということになる。

○権力に寄生する文化マルキスト

 下からの革命路線を抛棄して、体制に寄生し、権力をつかって、反国家・反伝統思想を押しつける人々を「文化マルキスト」と呼ぶらしい。このような人々の暗躍は、夫婦別姓、外国人地方参政権、として男女共同参画などの問題を通じて、ようやく世間に知られるようになってきた。
 そのような視点で捉えてみれば、教科書などは、戦後一貫して文化マルキストの最高の活躍場所だった。ところが、高校歴史教科書『最新日本史』(明成社)や中学校の『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』(扶桑社)の出現によって、保守の巻き返しがはじまり、やりたい放題というわけにはいかなくなってきた。
 そこで目をつけたのが、受験生にとっては教科書以上に絶対的な存在である「入試」を利用するという手段らしい。
 一旦、入試問題にすることに成功すれば、自己保身を本質とする官僚が守ってくれる。そして、“入試に対応できる”ということを至上命題とする教科書会社は、かならず、その項目(たとえば「強制連行」)を載せざるをえなくなる。つまり、入試→教科書→入試→教科書という悪循環のサイクルを構築することができるわけだ。それだけではない。一旦出された問題は、「過去問」という形で、センター試験を目指す将来の受験生たちを延々と拘束し続けることができる。

○教科書内容の徹底的調査を

 この悪循環を阻止するためにはどうするか。一つは、“教科書に出ている”という事が正当化の絶対的な根拠とされている以上、改めて、現在使用されている小中高校の教科書の内容を、採択率や頻度も含めて徹底的に調査し、その実態を正確につかむことが必要だろう。これについては、残念ながら、現在のところ、中学校の歴史・公民について詳しい調査が行われている(三浦朱門編著『教科書改善白書』小学館文庫)以外は、高校の家庭科、政治経済、国語といった教科書の問題点が部分的に指摘されているにすぎない。
 特に、今回、私達が指摘した「現代社会」は、まったく現代のことだけを扱っている教科書だけに問題が多いのではないかと予想される。

○センター入試の透明性を高めよ

 もう一つの対策は、センター入試の透明性を高めることである。具体的には、次の三点を公開させる必要があるだろう。①入試問題作成者の選定基準やその手続き、②入試問題作成の基準やその手続き、③作成された入試問題検討を検討する基準やその手続き。
 サヨクが寄生しやすい場所というのは、税金で維持されて潰れることがなく、閉鎖性が高くて、権力を握っている、という共通性がある。だからこそ、国民の目に常にさらされている、という状態にする必要があるのである。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-26 22:39 | 新聞
(「ボイス・リレー」[新しい歴史教科書をつくる会ホームページ]平成16年2月3日)


 先頃行われた大学入試センター試験の問題について、私と松浦光修氏は、大学を通じてセンターに質問状を提出した。それに対する回答が、一月二十八日付けでセンターから送られてきた。私達が回答を求めた三つの問題点の内、「世界史A」「世界史B」については「お答えします」、「日本史B」と「現代社会」については「現在検討中ですので、後日回答します」というものだった。世界史についての回答内容は、予想通り“問題は妥当”とするもので、その理由は、問題は「教科書に準拠」するように、選択肢も「多くの受験生に不利益にならないように(中略)教科書を広く調査し文章を作る」ようにしており、指摘された文章も「大半の現行教科書において使われている表現」であるから問題はない、というものだった。そして、「大学入試センター試験は、あくまでも現行の高等学校教科書の記載内容を踏まえて作題し、受験生が教科書に盛られた内容をどれほど理解しているかを問うものであります」と付け加えられていた。この回答について、私が感じた問題点を三つ指摘しておきたい。

 その第一は、私達が問題にした「教育の中立性」や「思想の自由」という大問題に全く答えていないということである。そして、それを回避できる理由として、検定を通った「大半の現行教科書において使われている表現」だ、ということを挙げている。ということは、センターは、“大半の現行教科書における記載”という事実が、教育の中立性や思想の自由に優先する大原則だと考えているということになる。

第二の問題は、それほどに重要視されている“大半の現行教科書における記載”という作題原則をセンターが本当に守っているのか、ということである。具体的に言うと、未回答の日本史について言えば、「日本資本主義発達史講座」は、今回受験した高校生たちが使っている現行教科書に関する限り、「日本史B」では十九種類のうち八種類、「日本史A」では七種類のうち二種類にしか記載されていない(全国歴史教育協議会編『日本史B用語集』山川出版社)。この事実に基づいて、私が平成十四年度の採択率を調べたところ、記述のある現行教科書の採択率は全体の二五%程度に過ぎないことが分かった。つまり、世界史の問題を正当化するためにセンターが主張している「多くの受験生に不利にならない」「大半の教科書に使われている」「受験生が教科書に盛られた内容をどれほど理解しているかを問う」といった基準が、ここでは全く無視されているのである。ということは、その基準を適用すれば、まさに日本史の問題こそ「不適格」と断ぜざるを得ないのである。他方で、「大半の教科書に載っていなくてもかまわない」と主張するのであれば、世界史についての釈明は「教育の中立性」や「思想の自由」を否定できる程の絶対性を持たないことになる。つまり、世界史を正当化すれば日本史は不適当、日本史を正当化すれば世界史については言い訳にならない、ということなのである。

第三の問題は、単に世界史の六割程度の教科書に載っているということが、全国の高校生に対して基本的な学力を問う試験の問題として、ほんとうに正当性を主張する根拠になりえるのか、ということである。私の手元に、全国歴史教育協議会編『世界史B用語集』(山川出版社)という本がある。これは、作題にあたって問題の普遍妥当性を検討する際に参考とされることが多い本なのだが、その全国歴史教育協議会名の「まえがき」には、「本書では、『世界史B』教科書に記載されている用語の中から学習に必要と思われるものをもれなく収集」したとある。ところが、この本では「強制連行」という用語を取り上げていない。「学習に必要と思われるものをもれなく収集」したという文章が誇張ではなく、また、「現行の高等学校世界史教育の概観と内容を、的確かつ容易に把握できる根本資料の性格をもつものとして、各方面から注目され、大学関係者からも多くの賛辞と謝辞が寄せられており」という表現が誇大広告でないとすれば、センターは、多くの歴史教育者が必ずしも高校生の“学習に必要だとは考えていない用語”を出題したことになる。となると、これは単に“教科書に出ているから”という言い訳ではすまされず、それ相当のセンター独自の論拠を示さなければならないのではあるまいか。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-24 10:00

[本日(平成19年1月21日)は平成18年度大学入試センター試験の最終日でした。そこで、平成15年度センター試験の問題に対して、私が起草し、松浦氏と共同でセンターに提出した質問状を掲載します。]


   質 問 状
平成16年1月21日
大学入試センター殿
皇學館大学文学部助教授 新 田 均
同 松浦 光修

我が大学が参加し、私ども自身も校務として関係させられました大学入試センター試験の問題につきまして疑義がありますので、我が大学の事務局を通じてお伺いいたします。責任ある回答をよろしくお願い申し上げます。

1.「世界史B」の「第1問」「B」の「問5」、「日本統治下の朝鮮」について正しいものを選べという問題で、「第二次世界大戦中、日本への強制連行が行われた。」が正解とされております。
 しかし、この「強制連行」につきましては、用語の的確さと実態の認識とについて、議論が分かれております。例えば、当時行われたのは「徴用」であって、それを「強制連行」と言うようになったのは1965年以降のことである(鄭大均氏)、「実態が『強制連行』などというものではなかった」(西岡力氏)などの異論が存在します。このように、歴史用語として、あるいは実態として、知識人や専門家の間で意見が異なっているような問題について、ある一方の主張だけを「正解」として、受験生に「強制する」ことは、教育の中立性を損ない、引いては、憲法が保障する思想信条の自由をも侵害するものではないかと考えますがいかかでしょうか。

2.「日本史B」の「第6問」の「A」に「既存の体制が生み出す矛盾に対して、マルクス主義の思想や学問は、根元的な批判を投げかけた。1920年代後半から1930年代初頭にかけてプロレタリア文学は隆盛期を迎え、また、マルクス主義による社会分析の成果が数多く生み出された。」との文章があります。
まず、「マルクス主義の思想や学問」についての評価は、今日ではかなり意見が分かれる問題でしょう。それを「根元的な批判」であったとするのは、かなり「主観的」で、入試問題の文章としてはふさわしくないのではないかと考えますがいかかでしょうか。
また、「マルクス主義による社会分析の成果」として、『日本資本主義発達史講座』を正解としておりますが、特定の「主義の成果」、それも「講座派」と「労農派」とに分かれていた内の一方のセクトの「成果」のみを答えとして受験生に「強制する」のはいかがなものでしょうか。

3.「現代社会」の「第1問」では、スウェーデンの紹介として、「外国人の地方参政権」について次のように書かれています。「こちらでは外国人でも一定期間以上住んでいれば地方参政権が認められていて、うちのママのように日本国籍のままでも、地方自治体の議会選挙には参加できるの。外国人であっても、住民として自分が住んでいる地域の問題には直接関係することが多いので、参政権は重要な権利と考えられているからよ。」
これは、国情の違いによって議論が分かれ、日本では反対の多い「外国人地方参政権の賦与」について、外国人の口を借りながら一方的に賛成派の主張を展開した文章です。その証拠に、下線部についての問いは、外国人地方参政権とは直接関係のない「住民の直接請求権」について問われています。このように、問題の形を借りて、特定の主義主張を展開することが、果たして、入試問題としてふさわしいとお思いでしょうか。
 また、同じく、「第1問」の「問1」の中に、「適当なもの」として、「夫婦同姓を定める現行の民法については、一方の配偶者が不利益を被ることもあるとして、選択的夫婦別姓を求める動きがある」という選択肢が挿入されています。このような社会の一部の「動き」を、入試問題に盛り込むことは適当なのでしょうか。もし、適当だとすれば、「教科書批判の動き」も、「憲法改正の動き」も、「集団自衛権容認の動き」も、同様に入試問題に盛り込んで構わないということになりますが、どうお考えでしょうか。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-21 23:01 | 不掲載・未発表
「私、靖国神社に行ってみたい」。クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を見て、小学五年生の長女がそう言い出したので、正月に靖国神社に行くことになりました。「どうせ正月に東京に行くのなら、皇居にも行こうよ」「それなら、一般参賀のある一月二日にしよう」ということで、家族の意見がまとまりました。

午前中に、まず皇居に行ったのですが、人が多いのに驚きました。中にに入っていく時には、立ち止まると将棋倒しになって危険なので、「立ち止まって写真を撮るのはおやめ下さい」と再三言われ、二重橋の前で記念写真を撮ることもできませんでした。外国人も多くて、「なんで外国の人まで、お正月にこんなに天皇陛下に会いに来るんだろうね」と娘は不思議がっていました。

 天皇陛下がお出ましになった時には、私たちの前に背の高い韓国人が二人いたために、私は娘と息子を変わるがわる持ち上げて、皇族方のお姿を見せるのにてんてこまいでした。「日の丸」の小旗が多いのは嬉しいのですが、みんなが振ると御皇族のお姿が見えにくくなって困りました。

 午後に行った靖国神社では、大鳥居からずらっと出店が並び、やはり人出が多くて、お祭りのようでした。猿回しや琴の演奏など、とても賑やかで華やいだ雰囲気でした。遊就館(附属博物館)も人がいっぱいで、ここでも外国人が多いのに驚きました。でも、一部のマスコミ報道から受ける印象のように、彼らが展示内容に反発を感じていたり、日本人の敵愾心に恐怖を感じているといった様子ではありませんでした。日本人も外国人もみんな静かに、興味深げに展示に見入っていました。

 本当は明治神宮にも行きたかったのですが、展示を見ていたら時間が無くなってしまいました。展示室を出て売店に行くと、娘と息子がよってきて、「お父さんの本(『首相が靖国参拝してどこが悪い!!』)もあるよ。今、手にとって読んでる人がいるんだけど、買ってくれるといいね」と言うので、みんなで買うように祈ったら効果がありました。「サインしましょうかって言ってみようか」と言ったら、「変な人だと思われるからよしてよ」と子供達に止められました。

 私は、高校を卒業してから就職するまで、十一年間東京にいたのですが、帰省していて正月の皇居や靖国神社の様子は知りません。今回、娘のお陰でそれを体験できました。百聞は一見にしかず。皆さんも行ってみられてはどうでしょうか。日本人の心の奥にあるものを垣間見る機会になるかもしれません。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-18 22:15 | 心のシンフォニー
[『明日への選択』(平成14年6月号)「選択読書室」]      


「力みもなく、躊躇もなく、実にすっきりとしてさわやかな姿の文章だ。明治憲法について、こういう書き方ができる時代になったんだなぁ」というのが、率直な読後感だった。一昔まえだったら、こんなに気負い無く明治憲法を弁護することなどできなかっただろう。そこには時代の変化が確かにある。しかし、本書の「さわやかさ」のよってきたる所以はそれだけではないだろう。

 著者は、世界の「総アメリカ化」が進む現代において、各国はそれに抗するために国家としてのアイデンティティーを明確にしようと努めているとの時代認識に立ち、日本の国柄についての議論こそ、今日の憲法論議に不可欠だと主張する。ところが、その議論の貴重な参考となるべき明治憲法は、現憲法との対比で不当に貶められたままである。これではならじと、明治憲法の冤罪を濯ぐと同時に、そこから学ぶべきものを探求しようというのが本書の目的のようだ。

 こういった書物に往々にしてみられるのが「贔屓の引き倒し」的な弁護や賞賛であるが、本書にはそれがない。それは、「先行研究に広く目配りする」「著名な文献は丹念に読む」といった、当たり前のようでありながら、実は多くの知識人が疎かにしている基本作業を淡々と実践しているからだ。しかも、多読の論者の著述に多い「要するに何が言いたいのか分からない」といったもどかしさもない。「複雑な事情を知悉した上で、大胆に断定する」という臆病な研究者にはとてもできないことを、これまた飄々と行っている。こんなわけで、本書は明治憲法の勘所を知りたいと願う読者が第一に読むべき入門書となることだろう。

 内容について一言すると、著者が力説したかったことの一つは、憲法の起草に当たった指導者たちがドイツの法学者らから学んだことは、君主権の強化などという小手先のことではなく、「法はその国の歴史に根ざしたものでなければならない」という大原則、心構えだったということらしい。このような伝統文化を尊重する法学思想(歴史法学)は、当時の欧州で流行していた最新の学説であるとともに、英国の思想家バークに由来する、その意味で必ずしもドイツに限定されない普遍性を有する思想でもあったようだ。この歴史法学に依拠して起草された明治憲法は、同時に、世俗国家を目指した正真正銘の立憲主義憲法であったという。そう言い切れる根拠は何か。その憲法が何故いわれのない悪評を浴びせられることになったのか。こういった問いについては、直接本書を手にして読みと解かれることをお薦めする。

 私としては、多様な時事問題への発言の合間に、このような根気のいる学術書を纏められた著者の気力に敬意を表して、この拙い紹介を閉じたいと思う。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-15 09:53 | 書評
 今月[平成16年1月]八日の本紙を見ていたら、「ただ一人の島守」と題し、玄界灘の孤島、沖ノ島で、十日交代で宗像の神を祭っている若い神職(二七)が紹介されている記事が目に止まった。地元の漁師から「宗像先生」と呼ばれて尊敬されているという。

 “若いのに立派な神主もいるものだ”と思いながら読んでいくと、「皇學館大学卒、長野県出身」。“あれ、うちの出身者だ。その上、私と同郷だ。まてよ”と思って名前を確認してみると、元の指導学生で、私が野球部の顧問をしていたとき部員だった学生であることを思い出した。

 その彼が、縄文時代以来の祭祀遺跡が存在し、「神話そのもの」とも言える孤島、密入国者が上陸することもあるという国境の島で、ただ一人、島守と防人とを兼ねながら、台風の時も吹雪の時も海で禊をする、という生活を続けているらしい。

年始に里帰りして、暖衣飽食の休暇を過ごし、まだおとそ気分も抜けないままに新聞を読んでいた私は、頭に冷水を浴びせられたような気持ちになった。

そう言えば、安定思考の仲間達にまじって、神職を志す学生の中には、祖先が伝えてきた祭りを守るために、あえて離島などに行くことを希望する者が時々いる。ある学生に、「この前、西郷隆盛について講演しに鹿児島へ行って来たよ」と話したら、「そうですか。実は、ボクの祖父の家は、西郷さんが島流しになっていた沖永良部なんです。西郷さんが牢屋に閉じこめられている様子が像になっていますよ。ボクは将来、そこに行って神主をしようと思っているんです」。祖父の後を継ぐために離島へ行く。これに似たような話は、他の学生からも聞かされたことがある。

 全国神社の大多数は、神主が何人もいるような大社ではない。むしろ、一人の神主が何社も兼務していたり、他の職業につきながら祭祀を維持している小さな神社が大多数だ。だから、“都会で、収入が安定していて・・・”などという考えの若者ばかりになれば、大多数の神社は滅んでしまう。

 そうならないように、神を敬い、祖先を尊び、奉仕の精神に富んだ若者を育てる。そのために教育に従事しているわけだが、実際に、そのような人生を選択する若者を目の当たりにすると、頭の下がる思いになる。心底「偉い」と思う。「彼らの選択に恥じないように、自らも励まなければ」と、新年の思いを新たにした。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-14 09:04 | 心のシンフォニー
[平成12年2月21日、三重県教育委委員会は、公立学校の教員による勤務時間中の不正な組合活動の実態調査の結果を公表した。その結果は、過去三年間だけで、不正な勤務をしていた教職員が全教職員の三分の一にのぼり、延べ人数にすると32,064人、不正な勤務の延べ時間数は、679,422時間にも及んでいた。この調査結果を受けて、三重県教委は不正な組合活動をしていた教職員に対して、その時間分の給与の返還を求める意思を表明した。本稿は、その直後の三重県議会を傍聴して記したものである。]


 [平成12年]三月初旬に開催された三重県議会では、三教組に好意的な県議から、「三重県の教育にもよいところがあったのではないか、よいところにも目をむけよう」「三重の教育に自信を持つべきだ」といった発言が出始めたという。『中日新聞』は、これを捉えて「三教組批判に“反撃”」なる見出しをつけている。実に面白い。三教組に対する批判が始まってからまだ半年しかたっていない。それにもかかわらず、批判に耐えかねて「いいところにも目を」「後ろ向きではだめ」等の意見が出始めたのである。ここには、人間が如何に自分の「主張」を生きることができないか、が示されている。

 自分の犯した過ちは素直に認めて反省しよう。悪い部分を見つめつづけて、そこから正しい人間になろう。これが日教組の教育観・歴史観ではなかったか。そして悪の追及や謝罪や反省ばかりの教育に対して、「いいところもあったのでは」などと異論を唱えようものなら、「美化してはならない」と批判してきたのではなかったか。この見方からすれば、いま三重県教育界に現れつつある主張は「三教組美化史観」と非難さるべきものである。

誤解しないで頂きたい。私は三教組関係者の言葉尻を捉え、その矛盾を突き、やりこめて楽しもうとしているのではない。批判にさらされた人間がどういう言動にでるものなのかをじっくり観察して、今後の教育の参考にしていただきたいと思っているのである。真に自分に向けられた批判、それも長期にたわる批判に人間はたえられない。「いいところにも目を向けてくれ」との叫びが必ず内面から生まれてくる。そういうものなのだ。

 だから、長期にわたる自虐的歴史教育の中からもう「いい加減してくれ」という声があがるのも当然である。しかし、ここで私が言いたいのはそう言うことではない。私が問題にしたいのは、むしろ、多くの教師がいまだに自虐教育を平然とおこない、何ら苦痛を感じていないということの異常さについてである。それが真に自虐教育、即ち自分自身を打ちのめす教育であるならば、教師にしろ、生徒にしろ、そんなものに人間が長く耐えられるはずがない。

 ならば、それは実は「自虐」ではなかったのではないか。「他人事」、つまり「他者虐待」だったのではないか。自分を歴史の外において、単に他人を責めていただけだったから、何の苦痛も感じなかったのではないか。自分は傷つかず、他人を責めることによって、自分が如何に「いい人」であるかを述べ立てる。しかもその他人とは自分の父祖達なのである。人権も、自由も、何もかも、すべての今日的価値をおおう「嘘臭さ」。「みんな本気じゃないんだよ」とちゃんとどこかで分かっている。そんな道徳腐敗の根源はここにある。この欺瞞に満ちた歴史教育を何と命名したらよいだろう。「父祖虐待史観」というのはどうだろうか。

それはともかく、三重県の教育関係者に繰り返して言いたい。今、あなた方に必要なのは自己弁護の言葉ではない。正面から批判を受けとめ、そのとき自分の内面から聞こえてくる声に耳を傾けること。自らが行ってきた教育と今の体験とを重ね合わせ、目を背けずに凝視して、そこから再出発すること。三重の教育の再生への道はそこからしか始まらないのだ、と。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-12 21:42 | 不掲載・未発表
[平成13年8月、毎日新聞社の玉置氏から、「言」という蘭に、首相の靖国神社参拝を支持する立場で意見を書いてほしいとの依頼があった。この時、毎日新聞社も小泉首相は公約通り8月15日に参拝すると見ており、そこでまず反対意見を8月7日に掲載し、賛成意見を8月14日に掲載するとのことだった。その説明通り8月7日の「言」の蘭には、弁護士の井上二郎氏の「異議あり!首相の靖国参拝 市民への冒とくだ」という反対意見が掲載された。ところが、私の意見は校正ゲラが8月10日に送られてきていたもかかわらず掲載されなかった。首相が8月13日に参拝してしまったからである。以下の文章は、その時の幻の「毎日新聞」掲載記事である]


 政権の交代が国民の意思に基づいて行われ、政権を去った権力者が身の危険を感ずることがないという状態は、民主主義の基礎である。この観点からすると、小泉首相の靖国神社参拝に反対している韓国は、民主主義国となってからまだ日が浅い国であり、中国は未だに民主主義国とは言えそうもない国だ。

 このような国にあっては、過去に対する評価と現政権の正当化とは、切っても切れない関係にある。したがって、政権の正当化という国内的な要請から、かの国々が日本の首相の行動に注文をつけるのは、ある意味では理解できる。しかし、だからといって、国家主権と文化の多様性とを尊重する民主主義国・日本が、そのような国々の都合に迎合しなければならない理由はない。

 振り返ってみれば、日本の民主化への歩みは古く、その歴史は明治維新後に徳川慶喜を処刑しなかった時にさかのぼる。そこから平和な政権交代の歴史がはじまり、次第に民意が国政に反映されるようになり、様々な紆余曲折を経て、歴史評価と現政権との間にも距離がおかれるようになった。

 特に、戦前と戦後とでは、戦争というもの対する評価が大きく変化したが、それでも公のために殉じた人々を祀る施設が維持され、その施設に多くの公人が参拝し続けきたという事実は、そうした日本の民主化の象徴だったと言えるだろう。

 言うまでもないことだが、民主主義国の国民には、自分とは異なる意見があちこちに存在するという不快さに堪えられるだけの強靭な精神的忍耐力が必要とされる。そうでなければ、民主主義に名を借りた強圧的な全体主義が横行するだけだ。「私はあなたの考えには反対だが、あなたが自分の考えを表明することを妨げる者がいたら、私は断固としてあなたを擁護する」。これこそ民主国民の基本的な態度であるべきだ。

 これはまた、相互尊重を基軸とする国家間の「民主的な外交」にも必要な態度だろう。そういう意味で、小泉首相の靖国神社参拝は、韓国や中国に国際的な民主主義を学習してもらうまたとない機会となるではないか。さらに、国家主権の重要性や国益の本質を認識できていない田中眞紀子外務大臣に、自分はどこの国の閣僚で、どこの国の国益を護らなければならないのかをしっかりと認識してもらう勉強の機会ともなるであろう。

新田均 皇學館大学助教授
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by nitta_hitoshi | 2007-01-10 08:40 | 不掲載・未発表

教師に社会常識を!

[平成13年2月1日、「産経新聞」アピール欄への投稿]

 三重県教育委員会による教師の勤務実態調査の結果、三年間で約六十一万余という膨大な勤務時間が不正な組合活動のために使われていた事実が明らかになった。このため、県教委はその時間に対して支払われた給与の返還を要求していくという。その総額は十億円を越えるそうだ。ところが、このことについて、教師たちからは県民に対して何ら「反省と謝罪」の言葉はなく、かえって県教委に対する抗議の手紙が一万通以上にものぼっているという。

 「勤務時間外にも学校や子供たちのために働いている時間がある。それが返還額から差し引かれないのはおかしい」と抗議した者があったそうだ。「慈善事業に熱心な者が脱税したら、慈善に使った金額を脱税額から差し引くべきだ」というような主張である。しかし、教師の時間外勤務は慈善事業ではない。ちゃんと四%の手当がついている。

 それに、自己犠牲を払ってでも生徒のために働こうと言う熱心な教師を評価するためにこそ、しっかりとした「勤務評定」が必要だったハズである。それを自ら骨抜きにしておきながら、いまさら「時間外勤務が評価されていない」などというのは「盗人猛々しい」というものだ。

 「勤務実態調査は返還を前提にしておらず、騙し打ちだ。それでは信頼関係が崩れる」と主張している者もいるそうだ。「正直に罪を認めたのだから、許してくれもいいじゃないか」というわけだ。こういう幼稚な手合いには、「謝って済むなら警察はいらない」と言うしかないだろう。働いてもいないのに給料を受け取るのは、立派な「詐欺行為」だ。それが、「慣行だったから」などという理由で不問に付されていいはずがない。返還だけでなく、懲戒処分が必要だ。それが「教師だから」という理由で大目に見られていいはずもない。これからの日本を担っていくべき子供たちを教育している者たちだからこそ、不正は厳しく戒められなければならない。

政府・文部省は、今後、子供たちに対する道徳教育の充実を図っていく方針のようだが、社会常識に欠けた教師たちに道徳教育などできるわけがない。まず、教師に社会常識を教えよ!
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by nitta_hitoshi | 2007-01-09 08:59 | 不掲載・未発表