新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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(11)神話にあらわれた天皇像

 それでは、神によって不動と定められた公的秩序の中心者とはどのような存在で、どんな在り方をしなければならないと考えられていたのでしょうか。

 まずはっきりしていることは、天照大神にしても神武天皇にしてもそうですが、全知全能ではないということです。いっぱい失敗談が出てきます。試行錯誤があるのです。天照大神でも占いをしないとスサノオノ尊の心の中が読めないのです。

 全知全能でないのなら、中心者としてどのような特性が求められているのか。それはどうやら、その存在がなければ神々や人々が自分の能力をちゃんと発揮することが出来ない存在ということのようです。全くの暗闇になってしまったら神々も力を発揮できない。思兼神という知恵第一の神がいようとも、手力雄神という力第一の神がいようとも、すべての神々に光を与える存在、今の言葉で言えばエネルギーとかパワーを与え、力づける存在。決して全知全能ではないが、そうであるが故に、他の神々の意向を汲み取って、それぞれにふさわしい場所を与え、能力を発揮させる存在とでもいいましょうか。

 このような存在であり続けるために、つまり、天照大神が神々を統治している精神をそのまま継承して、神々の子孫である国民を統治するために、天照大神はニニギノ尊に「私だと思って祀りなさい」と鏡を渡されるわけです。祭りを行って、自らの精神を清め、高め、それによって国民の気風をも清め高める。さらに、天照大神が授けられた稲の稔りに象徴されるこの豊かな国の発展を祈る。

 さらに、物語の流れをずっと見ていきますと、排他的に天神だけを尊重するのではなく、あらゆる要素を皇室が取り込まれていることがわかります。まずタカミムスビノカミの力、スサノオノ尊の荒々しい力、それから、日向の国津神である山の神、海の神、そして東征されてから後は大和の豪族の娘との結婚という形で、あらゆる地域の多元性を取り入れています。おそらくこういう伝統があったからだと思いますが、平安京を開かれた桓武天皇のお母さんは百済系の人です。ですから、朝鮮系の血も皇室にはもちろん入っている。「天皇は多元世界の統合者である」と、古代史家の高森明勅氏が言われていますが、こういう様々な要素を統合した存在が、天皇という存在なのです。(了)
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by nitta_hitoshi | 2006-12-15 06:38 | 講演
(11)神話にあらわれた国家像

 これが神話から神武天皇の物語までの大筋ですが、今まで述べてきたことをもう一回おさらいするとどういうことになるでしょうか。そこに表現されている国家観を一言で言えば、この葦原中国、日本国は天上の秩序が地上にもたらされた国家なのだということです。つまり、「地上の神の国」だということです。この地上の神の国は、どのようにして出現したのか。それは、同時に、国家という公共秩序がどのようにして創出されたのか、ということでもありますが、そこには「正しい順序がある」ということのようです。すなわち、先ず、地上(現実)に先立つ世界(天上=理念や心)の秩序(原理・原則)を形成しなければならず、しかる後に現象界に手をつけてはじめて秩序形成はうまくいくとする考えが秘められているように思います。

 それでは、その秩序形成の核となる原理とは何かということですが、先ずは「中心者が存在しなければならない」ということであり、次に「秩序が安定するためには、中心者は不動でなければならない」ということのようです。よく神道を指して「多神教」だと言いますが、単なる多神教状態ではダメだというのが神話の語るところです。天照大神が天岩窟に隠れられた時だって、高天原には手力雄神もいれば思兼神もいらしたわけです。ところが、いくら能力高い神々がたくさん居ても、それだけでは世界は「常闇」で、混沌として、昼夜の交代も分からない、つまり、秩序が整わないのです。だから、やはり天上の神々にも中心者は必要だということで、天照大神の再出現を願ったわけです。

 こうして天上の秩序回復されると、次に、その秩序が天孫降臨という出来事を通じて地上に移されるわけです。天上では天照大神という中心の神がその他の神々を治めておられる。それと同じように、この葦原中国では、天上の中心者の神の子孫である天皇が、天上の神々または地上の神々の子孫である国民を治められている。こういう構図になるわけです。そして、この国民のことを、「元元」(おおみたから)であると神武天皇は詔の中で言われています。国の根本、大切な宝物だというのです。

 ところで、一旦中心者が決まっても、それがくるくると変わるようでは秩序は安定しません。ですから、中心者は不動であることが望ましいわけですが、天上の世界はともかく、地上の人間は必ず死すべきものですから、中心者の不動を願っても、それは不可能です。ならばどうするか。中心者の地位の継承を安定させるしかありません。そこで、その継承方法を、神によって特定の血統に固定されたものとして、全体の合意を形成したということなのでしょう。

 さらに言うと、シナにおいては、民を統治すべき天命は皇帝一人が受けるものですが、日本の神話ではそうではありません。もちろん、天皇には葦原中国の主たるべき天命が与えられていますが、その他の神々にも、各々の子孫が代々受け継ぐべき固有の天皇補佐の役割が天命として与えられているのです。この点もシナの思想と比較して、あるいは後の歴史に鑑みて、見逃せない点だと思います。

 ここで、少し付け加えますと、神道の神観念を指して多神教だと言う人がよく引用するのが、本居宣長による神の定義です。本居宣長は神を定義して、「すべて普通でないもの、尋常ならざる力をもった物はすべて神だ。だから人間も神になることができる」と言ってます。しかし、それは宣長がいっていることの一面に過ぎません。宣長は、有名な『古事記伝』の第一巻である「直毘霊(なおびのみたま)」において、「神」の定義とは別に、「神道」を定義して、「タカミムスビノ神の御霊によって、イザナギ・イザナミの神によって始められ、天照大神によって継承され、さらにニニギノ尊に委任された、皇孫による統治の道である」と述べています。つまり、神々が皇統を中心とした一筋の道に整えられた時にはじめて「神道」は存在するというわけです。これが宣長の神道論です。ですから、その辺のことを理解しないと宣長の言っていることを誤解することになると思います。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-12-12 21:49 | 講演
(10)神武東征2

こうして、神武天皇は自分と息子のタギシミミノ命だけになってしまわれるわけですが、それでも、志を捨てずに熊野をさらに北上して荒坂津(あらさかのつ)にいかれるわけです。ここで、神武天皇は丹敷戸畔(にしきとべ)という者を征伐しますが、そこに悪神がいて、その毒気で将兵が倒れてしまいます。この時に、熊野の高倉下(たかくらじ)という者の夢に天照大神とタケミカズチノ神が現れて、天皇の軍隊を助けるために、国譲りの時にタケミカズチノ神が用いた剣を与えると告げられます。この剣を高倉下が天皇に献上したところ、天皇も将兵も毒気から解放されて目覚めたと伝えられています。

 次に、神武天皇はこの荒坂津から山を越えて大和に入ろうとされるわけですが、険しい山道で道に迷われてしまいます。その時にも、神武天皇の夢に天照大神が現れるわけです。そして、ヤタガラスという烏を遣わせるからその導きによって山を越えなさい、と告げられます。このヤタガラスに導かれて、大和の菟田(うだ)の下県(しもつあがた)という所へ到着することができました。

 神武天皇は、そこで再び大和の豪族達と戦うことになりますが、その時も夢に天神(おそらく天照大神)が現れて、戦う前にお祭りをしなさいと言われます。きちっとお祭りをすれば必ず戦いに勝つことができる、ということを言われるわけです。そこでその御命令に従ってお祭りをして、八十梟帥(やそたける)ー一人の名前ではなく大和地方にいた豪族たちを言うーと戦ってこれを破る。

 そして八十梟帥を破った後、再び宿敵の長随彦と戦うわけですが、この時もまた勝利することができませんでした。ところが、神武天皇の軍が危うくなった時、氷雨がふって、金の鵄が飛んで来て、神武天皇の持っていた杖の先にとまって光を放ちます。その光によって長随彦の兵は目が眩んで二度と戦う気力が無くなってしまったと『日本書紀』は伝えております。

 ところで、神武天皇に根強く抵抗した長随彦ですが、彼は大和地方を支配する豪族達の首領ではなくて、饒速日(ニギハヤヒノ)命につかえている豪族でした。この饒速日命は、実は天から降ってきた天神でした。それで、長随彦は神武天皇に対して「天神がすでに来ておられるのに、なんでお前が来るのだ。お前は偽物か」ということを問いただす訳です。そこで、神武天皇と饒速日命とが互いに証拠品を見せあって、互いに本物だということを確認するわけです。

 これはどういうことなのかと言いますと、私共の大学の名誉教授である田中卓先生は、高名な古代史学者ですが、その田中先生の説によれば、史実としては九州勢力の大和への侵入は一回だけではなく何回もあったと言うことです。大和に次々と入ってきた九州勢力の最後の中心者が神武天皇だった。ですから、大和に天神がいてもおかしくないし、饒速日命は神武天皇以前に大和に入った九州勢力の首長で、大和の豪族たちと連合政権を作っていたということになるわけです。田中先生の説は、神話や伝承は史実そのものではないが、全くの虚構なのではなく、そこに史実が反映されているという「史実反映史観」です。

 とにかく、大和には饒速日命という天神がいて、国神である長随彦がそれに仕えていた。その饒速日命には神武天皇がこの国を治めるべき人だとわかっていたけれども、自分の部下である長随彦は心がネジ曲っていてとてもそのようなものの道理が分かる人間手ではないことを知っていた。そこで、饒速日命は長随彦を殺して神武天皇に帰順する。この饒速日命の子孫が後の大和朝廷で中心的な豪族となる物部氏です。

 こうして大和を平定した神武天皇は、大和に都を作る宣言をされます。それが「橿原宮造営の詔」で、有名な「八紘を掩いて宇と為さん」という言葉はこの詔の中にあります。この宣言の後、神武天皇はこの土地の神様の娘であるヒメタタライスズヒメノ命を妃に迎えます。今の大阪府茨木市・高槻市を中心とした地域の豪族の娘のようです。そして、この方との間に生まれた皇子が第二代の綏靖天皇です。

 こうした過程を経て、ついに辛酉の年の春正月に橿原宮で天皇の御位につかれました。この年を『日本書紀は』は「天皇元年(すめらみことのはじめのとし)」と書いています。それから、神武天皇の四年二月に、天皇は詔を発して、「大孝を申す」ために鳥見山(とみのやま)で皇祖天神を祀られます。この場合の皇祖天神とはタカミムスビノ神と天照大神だと考えてよいと思います。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-12-11 20:54 | 講演
(9)神武東征1

 さて、『日本書紀』が伝える神武天皇の物語は、「天下の主たる者」と定められた皇統の継承者が、どのようにしてこの地上に国家を建設したかを語る物語なのですが、ニニギノ尊は九州に降ってこられたわけで、日本の中心地に降りてこられた訳ではありませんでした。したがって、そこにとどまったままでは、御祖先の神々の御命令を実現した事にはならないのです。

 神武天皇はニニギノ尊から数えて四代目にあたられますが、十五歳で皇太子となり、アイラツ姫という日向の吾田邑(あたのむら)の国神の娘と結婚して、そこでタギシミミノ尊というお子さんが生まれられます。しかし、四十五歳の時に、御祖先の命令を実現するために日本の中心地へ移動することを決意して、お兄さんや子供達に東征の相談をされます。この時に神武天皇が述べられたとされているのが、「神武東征の詔」です。そして、人々の同意を得て舟で東征に出発されるわけです。

 それでは、神武天皇がどういう経路を通って大和に入られたかといいますと、まず日向から出発されて九州と四国の間の速吸之門(はやすいのと)というところを通られます。ここで珍彦(うずひこ)という神が現れて神武天皇に従います。この珍彦という神は椎根津彦(しいねつひこ)とその時名前を変えます。それから今の大分県の宇佐市にあたる宇沙に行かれます。続いて、筑紫の国の岡水門(おかのみなと)、それからさらに本州に入られて、広島辺りの安芸の埃宮(えのみや)に行かれます。それから瀬戸内海を通って、吉備の高島に宮を作られて三年間滞在されます。ここまではずうっと順調に進んで来られるのですが、大阪から上陸されてから多くの困難に直面されることになります。

 浪速国から河内国の白肩津(しらかたのつ)に進出されて、ここから生駒山を越えて大和に入られようとされますが、そこで待ち構えていたのが神武天皇最大の敵である長随彦(がすねひこ)でした。この長随彦と孔舎衛坂(くさえのさか)で戦って負けます。負けた上にお兄さんのイツセノ命が負傷される。そこで、蓼津(たでつ)というところまで退却されます。そして、相手が強力なのでこのままの進路では大和に入ることはできないと考え直して、紀伊半島を迂回して大和に入る作戦を立て、紀伊水道辺りの雄水門(おのみなと)を通られる。そして、紀国(きのくに)の竃山(かまやま)まで来た時にお兄さんのイツセノ命がお亡くなりになるのです。

 それから、名草邑(なくさのむら)に到着。さらに、紀伊半島の一番南から少し伊勢寄りに上がったところの狭野(さの)を越えて、熊野に入られる。ここで神武天皇は暴風雨に合われます。この暴風雨に合った時に、お兄さんのイナイノ命が海に身を投じて鋤持神(さいもちのかみ)になったと伝えられています。鋤持というのはサメの事です。また、もう一人のお兄さんのミケイリノノ命も常世郷(とこよのくに)に去ってしまわれた。つまりお兄さんたちは皆いなくなってしまったわけてです。

 ここの物語がちょっとおもしろくて、神武天皇御兄弟のお母さんとお祖母さんはいずれも海の神の娘でした。「私たちは海の神の子孫なのに、何でこんなに海は自分たちを苦しめるんだ」と嘆かれて、お兄さんたちはいなくなってしまったという言い伝えになっております。
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by nitta_hitoshi | 2006-12-09 10:54 | 講演
(8)日向三代

 さて、神話の最後は日向三代です。ニニギノ尊が天降られましたのは、日向の高千穂、つまり九州でありまして、いきなり日本列島の中心に天降られたのではありませんでした。この九州で皇統が三代続きます。一代目が天下られたニニギノ尊、二代目がヒコホホデミノ尊、三代目がウガヤフキアエズノ尊、このウガヤフキアエズノ尊の一番末のお子さんがカンヤマトイワレビコノ尊、すなわち神武天皇です。

日向第一代のニニギノ尊はコノハナサクヤ姫というお姫様と結婚されますが、このコノハナサクヤ姫はオオヤマツミノ神の子と伝えられております。つまり山の神様の娘さんと結婚されたわけです。この神は国神(くにつかみ)、すなわちこの地上におられた神です。そしてヒコホホデミノ尊が生まれられるわけですが、このヒコホホデミノ尊はトヨタマ姫と結婚されます。これは海神の娘であり、この神ももちろん国神です。このヒコホホデミノ尊とトヨタマ姫との間に生まれたウガヤフキアエズノ尊は、タマヨリ姫と結婚しますが、このタマヨリ姫はトヨタマ姫の妹で、これまた海の神の娘です。

 こうして、日向三代の間に天神(あまつかみ)と国神との融合が行われただけでなく、それぞれ結婚される相手も山の神、海の神ということで、様々な異質な力が糾合されていくという物語になっているのです。そして、ウガヤフキアヘズノ尊とタマヨリ姫との間にヒコイツセノ命、イナイノ命、ミケイリノノ命、カンヤマトイワレビコノ命、すなわち神武天皇という四人のお子さんがお生まれになります。ここまでが神武天皇のお話しの前提をなす神話の部分です。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-12-07 20:42 | 講演