新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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(平成12年10月7日、第十五回歴史体験セミナー、研修Ⅰ)


(3)文明的「独立宣言」としての神話

日本神話の物語を伝えるものに『古事記』と『日本書紀』があります。その大筋は同じですが、個々の部分で見ると、『古事記』と『日本書紀』とでは記述にかなりの違いがあります。それから、『日本書紀』の方は、神話を記述する部分では、もっとも正しいと考えられた伝承を「正文」として先ず記述し、その後で様々な異説を列挙しています。ですから、『古事記』と『日本書紀』とで記述に違いがあり、さらに、『日本書紀』の中でも「正文」と異説との間には違いがあるのです。それを一々皆さんに説明すると、混乱してしまって、かえって訳が分からなくなると思います。そこで、ここでは『日本書紀』「正文」の記述に基づいて話をすすめることにします。何故なら、『日本書紀』は対外的に、つまり公式に、特にシナを意識して日本とはどういう国なのか、ということを紹介したものだからです。そして、その「正文」は、当時の政府がこれこそ正しい言い伝えであると認定したものだからです。

 ところで、『日本書紀』はー『古事記』も同じですがー、神代を冒頭において、次に人の時代の歴史を書く、という形式をとっていますが、これは実は非常に特徴的なことなのです。何故かというと、『日本書紀』は、シナの王朝が編纂した公式の歴史書を意識して書かれ、文書などについては『漢書』や『後漢書』を範としているからです。ところが、そのシナの正史の原点となった『史記』という歴史書は、歴史は徳をもった聖人が人民を統治した時からはじまるという歴史観に立って、編者の司馬遷が実在したと考えた皇帝の記述(「五帝本紀」)から書き始めていて、神話や伝説を軽視しています。

 ところが『日本書紀』の場合には、神話を冒頭にもってきて、巻第一・二の二巻を費やし、神話に基づいて歴史が始まるという書き方をしているわけです。非常に神話を重視した構成をとっている。いやむしろ、「神話の実現としての歴史」という考え方をしている。憲法に例えるなら、前文(理念・原則)に当たるのが神代(神話)の記述で、それを具体化した条文に当たるのが人代(歴史)の記述という具合になっている。『日本書紀』がまとめられた時代の律令国家の体制理念がいかなるものかを説明するために、あえて神話を冒頭においた、とも言えましょう。現代人が哲学的な抽象理論で語る事柄を、古代人は神話として語ったと言えるでしょうか。

 さらに言えば、それはシナ文明からの独立宣言文であったとも考えられます。近年、「自立」するとことが大切、という話をよく耳にしますが、それでは、どうすれば「自立」できるのか、というところまで踏み込んだ議論はあまり聞きません。私は自立するためには、「基盤が必要だ」と思います。立ち上がるためには、踏みしめても揺るがない確固たる大地が必要なようにです。

 他者との関係という面から見ると、「自立」ということは、すなわち「自律」ということになるのでしょう。常に他者に追従するという状態を脱するためには、他者との関係を主体的に決することができるだけの独自の原則を持たねばなりません。

 聖徳太子の時代から天武・持統天皇の時代、すなわち古代律令国家建設の時代は、日本がシナ文明から一定の距離をとって自立する道を歩みだした時代だとも言われています。そうであったとすれば、そこにはシナ文明とは異なった何らかの原則が打ち立てられていた筈です。私はそれを表現したのが神話ではないかと思います。シナ文明における原則は様々ありますが、代表的なものの一つに「易姓革命」の思想(原理)があります。シナの人々は、天命が変わることによって、皇帝の血筋が代わる(即ち、皇帝の姓が易わる)ことを当然のことだと考えていました。このようなシナに対して、古代の日本人は、後の言葉で言えば、「万世一系」の原則を対置することによって、かの文明からの独立宣言したのではないでしょうか。

 それでは神話が語る日本固有の原則とは何かという観点から、神話の内容を具体的に見ていきたいと思います。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-10-30 10:39 | 講演
(平成12年10月7日「第十五回歴史体験セミナー」研修Ⅰ)


(2)近代日本と神武伝承との関わり

 それでは早速、神武天皇のお話に入ります。神武天皇の存在が日本の歴史に大きな影響を与えた最近の例は明治維新です。その明治維新について、神武天皇に関わる話が二つあります。一つは「王政復古の大号令」の中で、これからめざす理想として神武天皇の時代に帰るのだ、ということが宣言されたこと。もう一つは、明治六年三月に日本は暦法を太陰暦から太陽暦に変えましたが、それに合わせて「紀元節」、すなわち建国記念日を定めます。その建国記念日の日にちが神武天皇即位の日とされることによって、日本の建国=神武即位と公式に定まりました。

 明治維新には日本を近代国家にするという大きな目標がありました。近代国家とはその特徴を一言で言えば国民全体が国を支えていくということで、ですから、国民国家と言われるわけです。その国民国家を作り上げていく場合にどんなことが必要かというと、当たり前のことですが、国を支える一人一人が自分はこの国の国民であると自覚し、国民としての一体感、仲間意識をもっているということです。これは非常に大事なことです。何故なら、そういう意識がないと、「あなたはこの国の国民ですから、国を支えるために、兵役や教育の義務を果たして下さい」と言われても、「何故自分がそんなことをしなくてはいけないのだ。国は武士が守ればいいではないか。俺は農民なんだから、関係ない」ということになりかねません。このように、国民全体に仲間意識、主体者意識がなければ、国民全体が国家を担うことなどできないわけです。

 この意識を「国民意識」と呼ぶとすれば、皆さんは国民が国民意識をもっているのは当たり前だと思われるかもしれません。ところが、この国民意識を当たり前に思わせるということは、実は非常に難しいことだったのです。例えば、封建時代であった江戸時代には国というのは藩のことでした。私は薩摩、私は長州と、武士にとって一番大切なのは藩であり、薩摩がイギリスと戦争しても他藩から見ると、あれは他国のことだという意識であったわけです。このように、江戸時代は地域ごとにバラバラであったばかりでなく、身分ごとにもバラバラでした。警察や軍事は武士の仕事で農民は関係ない、といった感じです。このようなバラバラの意識を乗り越えて、私たちは同じ国民なのだから同じように義務を負担しなければならないという気持ちをもってもらうことは非常に難しいことでした。

 それは日本にとってだけ難しい仕事だったわけではなく、諸外国にとっても難しい仕事でした。そこで、各国が考えた方法の一つが国旗、国歌の制定でした。国旗を掲げ国歌を歌うことによって、国民としての意識を高めていこうというわけです。さらに、国の記念日を定めて繰り返し繰り返しそれを祝うことによって自分たちの一体感を高めていきました。そのような意味で国の記念日も近代国家になってつくられたわけです。

 ここで日本に特徴的なことが一つあります。国の記念日の中でも特に重要なのは国の誕生日、すなわち建国記念日ですが、アメリカの建国記念日は独立記念日です。アメリカは、イギリスからの独立がすなわち建国ですから、それに相応しい日が記念日に選ばれています。フランスは国王の支配に抵抗して市民が起ち上がった革命を記念するのに相応しい日を、革命記念日=建国記念日にしています。大雑把に言って、欧米の場合、国王に反抗して国民が起ち上がった日を建国記念日としているわけです。ところが日本の場合は正反対で、初代の天皇が即位された日を建国記念日にしたわけです。それだけではなくて、明治六年以降に定められた国の記念日は、いずれも皇室に関係の深い日が選ばれています。なぜ同じ近代国家を目指しながら、外国は国王に反抗した日を選び、日本は皇室に関係の深い日を選んだのでしょうか。実はここに日本の近代化の特徴が現れているのです。

 すなわち、バラバラの封建意識を乗り越えて国民としての一体感を持つことが必要となった時に、先人たちは封建時代よりももっと古い時代に帰ろうとしたのです。それはつまり古代です。一人の天皇のもとに国民が一致団結して中央集権体制をとっていた時代。その時代を思い出し、そこに帰ることによって国民の一体感を生み出そうとしたわけです。その時代には中心者としての天皇と、国家を支える公の民、すなわち「元元(おおみたから)」あるいは「公民(おおみたから)」としての国民とがいた。このような考えに立つと、日本においては、天皇に対する尊敬心を高めるということと国民の一体感を深めることは同じコインの裏表のような関係になります。ですから、国家・国民の記念日にはすべて皇室と関係の深い日が選ばれたわけです。その中でも特に重視されたのが紀元節です。つまり神武天皇即位の記念日です。
 それでは神武天皇の物語とは如何なる物語かということを神話から説き起こして参りたいと思います。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-10-27 08:46 | 講演
(平成12年10月7日「第15回歴史体験セミナー」研修Ⅰ)


(1)本研修の目的

この研修は、「日本創業の原点・神武天皇」という題でお話しします。まだ皆さんの記憶に新しいところだと思いますが、今年(平成12年)の五月に森首相の「神の国発言」があり、それが世間で取り沙汰されました。あの議論を聞いていて私が疑問に思ったのは、“そもそも過去の日本人が考えてきた「神の国」とは何か”ということをどれだけ知って議論しているのだろうか、ということでした。「神の国」ということを理解するためには当然日本の神話を読んで、そこにどんなことが書かれているか知っている必要があるわけですが、「神話の内容さえ知らずに議論しているのではないだろうか」と思えるような発言ばかりでした。自国の神話を知らないことが、現実に国政の混乱を招いているわけですから、日本神話について学ぶことは、決して現在と無関係な暇人の行いではないと思います。

 今日のお話しは神武天皇についてですが、実は神武天皇の物語は日本神話の一番最後の部分、あるいは神話が終わって人間の時代に移る繋ぎ目の部分に当ります。物語りの位置づけとしては、神話の完成という位置を占めていると言ってもいいでしょう。ですから、日本神話を理解していないと神武天皇の物語の意味は分からないわけで、神武天皇について学ぼうと思えば、必然的に日本神話を勉強しなければなりません。

 そこで、この研修では、神武天皇について学ぶ手始めとして、神話の粗筋を頭に入れていただくことを目的とします。そして、神話の粗筋を知る中で、神武天皇の物語が、実は神話に描かれた理想の実現という位置を占めていることを理解していただければと思います。予め申し上げますが、神武天皇が九州から大和にのぼってこられたのは御祖先の天照大神が自分の御子孫にこの国を治めなさいとご命令になった、その御命令を実現するという目的があったからです。つまり、神話に描かれた国家の基本構造をこの地上にもたらして、神話を完成させた人物が神武天皇であったわけです。そこで、古代の日本人が描いた国家像や天皇像とは何だったのか。そんなことを考えながら、私の話を聞いていただければ幸いです。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-10-26 08:00 | 講演
(「?」平成12年9月?)


 「日本国、まさに天皇を中心としている神の国である」。この森喜朗首相の発言を捉えてマスコミは、総選挙を前に、森バッシングの大キャンペーンを展開し、これに野党も便乗した。そこには、国家の精神的根幹に関わる事柄を「政争の具」とすることに対する懸念は微塵も感じられなかった。このような事態を前にして、心ある知識人は、森発言擁護の論陣を張った。

その論攷を集めて緊急出版されたのが本書、加地伸行編『日本は「神の国」ではないのですか』(小学館文庫/本体四七六円)である。本書は三部で構成され、第一部は資料として森首相の「神の国」発言の全文、新聞による批判、森首相の参院本会議での釈明、野党による批判、森首相のマスコミに対する釈明会見などが載せられている。第二部には加地伸行氏、佐伯彰一氏、長谷川三千子氏、ペマ・ギャルポ氏、山口昌男氏の論攷が収められ、さらに第三部には、大原康男氏、坂本多加雄氏、中西輝政氏、西修氏、西部邁氏の論攷が収録されている。

 今日の日本を代表する錚々たる保守派論客が「天皇」と「日本の神々」とを中心テーマとして日本論・日本人論を展開している。このことだけでも画期的で、一読に値することは言うまでもないが、私の印象をごく簡単に述べれば次のようである。

日本の「神」は唯一絶対神ではなく、象徴天皇制度の下でも天皇は日本の中心であるとの考えは各論者に共通しているようだが、中には「戦前の神道=悪」「戦前の天皇制イデオロギー=悪」との先入観に未だにとらわれているのではないかと思われる論攷もないではない。そうした中にあって、戦争の勝敗と思想の評価とを切り離し、思想それ自体の内容を吟味するという観点から「皇国史観の再評価」を試みている長谷川氏の論攷の“益荒男ぶり”は出色である。

 また、“公議輿論によって国民の意思を決定し、それを天皇が確認することによって国家意思が形成されるという国柄は、幕末以来今日まで変化していない”と、坂本多加雄氏は論じている。これは従来の坂本氏の議論を要約したものではあるが、主張がいっそう明確化され、戦前との断絶を強調する憲法学界一般の思潮に対する大胆な挑戦であることが浮き彫りとなっている。

 さらに、対外的な孤立でも追随でもなく、独自の価値観と習慣を保守する決意のもとに、論争の文化を再生することを提唱している中西輝政氏の論文も、これからの日本人のあるべき基本的姿勢を示唆していて興味深い。
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by nitta_hitoshi | 2006-10-25 07:51 | 書評
(平成12年5月中旬稿)


《不肖の弟子? 勝田吉太郎氏》

 勝田氏は「むろん学園は教授としての久保教授に従来と同じ給与を支払っている。決して減給したり、いわんや解雇したりしたわけでない」と弁解している。授業はさせない、研究室は使わせない、教授会にも出席させない、それでも“給料は支払っているのだから文句を言われる筋合いはない”とでも言いたいのだろうか。ある意味では“確かにうらやましい境遇”だが、人間の「プライド」というものに対して、これほど配慮を欠いた発言も珍しい。

 ところで、八木氏が「滝川事件」に言及して、学長を含む大学当局の姿勢を批判したことが、勝田氏にはよほど勘にさわったらしい。この短い「一言」のほぼ三分の一を費やして、滝川幸辰氏と自分との関係を説明し、滝川氏から「本当の弟子」「最後の弟子」と言われたと書き、滝川氏を「アカデミック・フリーダムのために巨大な足跡を残された歴史的人物であった」と持ち上げ、滝川氏が毅然として自由を守るために戦わなければならなかった相手は、戦前にあっては「軍国主義へと次第に傾斜しはじめていた政治権力」であり、戦後にあっては「民主主義の旗を掲げる大衆社会」だったと述べている。

 この論法によれば、「三重タイムズ」も、八木氏も私も、そして『諸君!』『正論』までも、「自由を脅かす大衆の一員」ということになるらしい。おそれいった権威主義だが、自己弁解の欲求にとらわれてしまった勝田氏には、自分が本当は何を言ってしまっているのかが見えていないようだ。勝田氏の論法が正しければ、自由にものが言える大学人というのは、学生募集に苦労する必要のない「俗にいう税立大学」の教員だけ、である。そうだとすれば、滝川氏が毅然として自由を守る態度がとれたのも、所詮は京都大学という「税立大学」に席をおいていたからにすぎない、ということになってしまう。これが「巨大な足跡を残された歴史的人物」の正体なのだろうか。本当の弟子、最後の弟子に、こんな使われ方をするとは、“哀れなるかな滝川幸辰”と嘆じざるをえない。

この「一言」の終わりの方で、勝田氏はエドマンド・バークのこんな言葉を引用している。「残酷な君主の下では、受難者たちはその傷の苦しみを和らげるべく、人々の慰安的な同情をうけるであろう。彼らは、受難を蒙った高邁な節操を鼓舞する人びとの拍手喝采をうけるのだ。しかしながら、大衆の下で迫害に晒される人々は、一切の外的慰安を奪われ、人々に見捨てられるようにさえ見えるのである」

 この引用文の意図するところは何なのだろうか。「残酷な君主」によって受難を蒙った久保教授は、大衆の拍手喝采をうけるからまだいい。しかし、久保教授に受難を負わせてしまった「残酷な君主」たる勝田氏は、人々に見捨てられるからもっと可哀想、という意味だろうか。ならば、語るに落ちたとはこのことだろう。

地下の滝川先生はこう勝田氏に話しかけられているのではないかー「勝田君、君に私の孤独と無念さはわかるまいよ。どうやら君は大衆社会を巧く泳いで行くことができなくなって、自己保身に骨を折っているようだね。だが、その骨折りは評価されずにおわるだろうよ」と。自己保身のために師匠の権威をも貶めてしまった不肖の弟子の「痛ましい姿」がここにある。

最後に「一言」。私が勝田氏の「一言」の中で一つだけ「その通り」と納得した箇所がある。それは「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」という『論語』の箴言の引用である。私は、この箴言に従って勝田氏が身を処されることを期待したいし、そのような勇気ある人物をあくまで追及するほど日本の大衆は酷ではないとも思っている。(了)
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by nitta_hitoshi | 2006-10-24 08:02 | 不掲載・未発表
(平成12年5月中旬稿)


《「当地の事情」についての若干の説明》

 久保教授に対する大学側の対応が「辞職の勧告」から「事務職員への降格処分」へと変化するまでの間に、三重県では県立松阪商業高等学校長・永井久男氏が自殺するという痛ましい事件が発生している。平成十一年十二月十五日のことである。『週間新潮』(二月十七日号)によれば、この事件の背景には、同校の一教員が起こした差別発言事件があり、県教委による調査は二十数回に及び、さらに、部落解放同盟による糾弾学習会、高校内の教員たちによる生徒の前での報告集会の開催要求などがあったという。

 勝田学長を初めとした大学当局者は、永井校長の自殺に自分たちの将来を重ね合わせて恐れおののいたのではないかとの憶測が、関係者の間では囁かれている。勝田氏の「一言」の中にある「折しも、近隣の高校(複数)でここ一、二年の間に教員の“差別発言”がきひがねとなり、少なからぬ混乱が発生した。どうして久保先生はこういう状況のなかでこんな発言をしたのかー同僚の大半が困惑したのも自然の成り行きというもの」という記述は、この憶測の正しさを証明しているように見える。

 勝田氏は「三重県の人権センターのありのままの姿をも観察した。『人権センターについての評言はかならずしも事実と合致しない。随分荒っぽいセンター批判である』という指摘もでた」と書いている。となると、「三重県の人権センターのありのままの姿」に関して、三重県で今どのような問題が起きているのかについても「一言」しなければなるまい。

[平成12年]三月十五日の三重県議会・教育警察常任委員会において浜田耕司県議(自民党)によって、さらに翌日の行政改革調査特別委員会においては芝博一県議(県政会)によって、三重県同和教育研究協議会(同和教育の研究を目的とする教員を中心とした団体。以下「三同教」)に対する県教委の不自然な優遇策が指摘された。「三同教」は任意団体であるにもかかわらず県の施設である「人権センター」に入居し、入居費の補助まで受けている。長期研修を名目に九人の現役教員が長年にわたってー最長は九年ー事務局員として「三同教」に派遣され、文部省の方針に従って他の研究団体に対する補助金はカットされたにもかかわらず「三同教」に対する補助金だけは増額されている、というのである。

 県議会での問題化によって「三同教」に対する疑惑が高まる中、「三重タイムズ」が独自の取材によって、人権センターに関する新たな事実を明らかにした(三月三十一日)。それによれば、人権センターには「三同教」の他にも人権問題研究所、三重県解放保育研究会、IMADR(反差別国際運動)という同和に関係した三つの任意団体が入居している。県の財政悪化で、県立博物館などいわゆる“箱物”の建設がすべて抑制されている中で人権センターは建てられたが、「三同教」などの四つの任意団体は人権センターのオープンと同時に入居し、図書室を除く二階部分を占拠している。人権センターはこれら四団体以外の任意団体に対しては使用が許可されておらず、三階の会議室もこれら四団体が無料で自由に使用しているという。

 さらに、これらの団体にはいずれも教員が長期研修の名目で「事務職員として派遣」されており(給与は公費負担)、このような任意団体に対する教師の派遣も人権センターに入居している四団体以外には例がないという。これについて県教委は「教特法(教育公務員特例法)を拡大解釈してきたといえる。是正すべき点は是正していきたい」と語ったそうだが、「“同和”と名がつけば無条件に特別扱いとなるのか」と、「三重タイムズ」は批判している。

 「三重タイムズ」が、人権センターの問題を追及しはじめたのは、「鈴鹿国際大学の久保憲一教授がなぜ教授職を解任されたのか。久保教授が批判した人権センターに、その原因があるのではないか」との疑惑が生じためのようだ。久保教授を支援する人々の間では、“人権センターは同和関係諸団体の秘密基地で、久保教授は、それと知らずに批判してしまった。ここに光を当てられることは関係者にとって非常に都合の悪いことだった。これが久保事件の本質ではないか”との推測が流れはじめている。この推測が正しいかどうかはともかくとして、報道されていることが事実だとすれば、久保教授の「人権センターになっていない。実態は同和解放センターだ」という指摘は当を得たものであったと言えよう。鈴鹿国際大学は「人権センターのありのままの姿」についてどのような「観察」をしたのか、明確な説明が求められている。

ところで、本稿のはじめで、「部落問題は本当に怖い」と感じている勝田氏の感覚について疑問を呈しておいたが、ここでその理由を補足しておきたい。校長自殺事件、「三同教」・「人権センター」問題が浮上する中で、私たちも同和教育問題を考えざるを得なくなってきた。三教組が行っていた不正出張や不正研修と同様の不正を「三同教」も行っているとするならば、それを取り上げないのは公平性を欠くからである。また、“県教委が発行している”同和教育関係の資料に目を通してみると、同和教育に名を借りた「反日・反天皇教育」が行われている事実もあるようだ(渡邊毅「今日の教育と神道」『三重の公教育が危ない!』日本会議三重発行参照)。さらに、そのような問題点の指摘が自由に行えない環境があるとするならば、思想・言論・学問の自由の観点からも重大な問題である。

 こうした理由で、私たちが同和教育に関連した発言を始めたところ、「『諸君!』五月号を読んだのだが・・・」として、部落解放同盟三重県連合会から私と同僚の皇學館大学助教授・松浦光修氏に会見の申し込みがあった。最初は何事かと私たちも身構えてしまったが、三重県連からの提案は「これからは共生の時代だと考えているので、異なった意見の人たちからも話しをうかがう機会を持ちたい。状況の変化を踏まえて、これまでの運動の在り方についても見直しを行い、改めるべき点があれば改めていくつもりであり、事実、既に改めてきている。講演会のような形で、幹部数名が新田・松浦両先生の歴史観・天皇観・神道観などをお聴きする機会がもてれば有り難い」というものだった。もしも、その言葉通りに実現するならば、これは実に画期的なことである。このような企画を通じて、率直な意見交換が行える環境が整うならば、それは同和問題の解決にとっても大きな前進となることだろう。

 同和問題に詳しい人々の中には「些細な発言を捉えて、差別発言だとして糾弾された例もあるので気をつけて下さい」とアドバイスして下さった方もある。しかし、私たちは、三重県連の真摯な姿勢を信じて、この企画を積極的に推進したいと考えている。私たちは、やみくもに同和関係団体を恐れるのではなく、まずは相手を信頼することからこの問題を考えていきたいと思っている。勝田氏の感覚に疑義を呈した理由はここにある。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-10-21 07:18 | 不掲載・未発表
(平成12年5月中旬稿)


《両者の説明の相違から浮かびあがる問題点》

ここで、勝田氏の説明と、「三重タイムズ」の報道や久保教授の手記との相違から浮かび上がってくる問題を整理してみよう。
 その第一は、いずれの説明が真実なのか、である。しかし、これについては裁判の過程で明らかになるであろうから、ここで結論を急ぐ必要はあるまい。それにしても、久保教授の手記が本当だとすれば、勝田学長は“独裁”と言われかねない教授会運営を行っていることになる。また、「当学園の生徒・学生の募集に悪影響を及ぼし」たとは、どのような事実とデータに基づいた断定なのか。信頼関係を著しく失墜させた「その他関係機関」とは何であり、どのような事実に基づいてそう判断できるのか。これらが懲戒の理由として列記されている以上、大学当局には明快な説明を行う責任があろう。

 さらに、勝田氏の言っていることが事実で、それを根拠に教授会が久保教授を「教員として不適格」と認定したとすれば、何故、大学当局は、その後いとも簡単に久保氏を教授職にもどし、前の辞令を取り消したのだろうか(『正論』六月号[平成12年]拙論参照)。この処置は教授会に諮られ、承認を得たのだろうか。承認を得たとすればその理由は何だったのだろうか。

第二は、同和問題についての言論は如何にあるべきか、ということである。これについては、昭和六十一年の地域改善対策協議会(「地対協」)の「意見具申」が参考になる。「地対協」は、昭和五十九年六月に首相や関係大臣に宛てた「意見具申」の中で同和問題の現状は「同和地区住民の社会的経済的地位の向上を阻む諸要因の解消という目標に次第に近づいてきたといえる」との認識を示した上で、「心理的な面にかかわる分野に問題が残されている」と指摘した。

 さらに「地対協」は、昭和六十一年十二月の「意見具申」の中で、あらためて「新たな差別意識を生む様々な要因が存在している」と指摘し、克服されるべき要因として四点を挙げたが、その第四番目として「同和問題について自由な意見交換ができる環境がないことは、差別意識の解消の促進を妨げている決定的な要因となっていることは否定できない」と述べている。

 第三は、同和問題を含む人権問題について、当事者や関係者が問題ありと感じるような発言や行為が発生した場合、それは如何に処理されるべきか、ということである。これについては、昭和六十二年三月に、総務庁が長官官房地域改善対策室長名で各都道府県知事・各指定都市市長に通知した「地域改善対策啓発推進指針」と題する文書が参考になる。

 この文書の中には、昭和六十一年の意見具申で指摘された四つの課題の克服に関連して、差別事件の処理の在り方が具体的に示されているからだ。それによれば、「差別事件を起こしたと指摘された個人、企業は、法務省設置法により権限を付与された法務省人権擁護局並びに地方法務局の人権擁護(部)課(以下「人権擁護行政機関」という。)の人権侵犯事件調査処理規定(昭和五十九年八月三十一日法務省権調訓第三百八十三号)に基づいた事件処理等に従うことが法の趣旨に忠実である」という。

以上のような同和問題に関する政府の方針を、鈴鹿国際大学当局は知らなかったのだろうか。そうだとすれば、鈴鹿国際大学における同和教育は随分おくれていると言わざるをえない。同和教育に力を注いできたハズの三重県の教育関係者がこのような状態なのは“まことに残念”である。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-10-20 07:41 | 不掲載・未発表
(平成12年5月中旬稿)


《久保教授の解任はどのような手続きで進められたのか》

久保教授の発言に関しての鈴鹿国際大学の対応について、勝田氏は次のように説明している。
 まず勝田氏は二回にわたって久保教授の言い分を聞いた後、「昨年十二月中旬に急いで『教員適格性審査委員会』を発足させ、そこに同僚たち全員に深く敬愛されている教授たちに入って頂き、長時間にわたって議論をつくした」。「そのあと、十二月二十二日に臨時教授会が開かれ、長時間にわたってさまざまな角度から審議された」。そして「残念ながら『教員として不適格である』という委員会の判定は、教授会でも承認された」という。

 この説明を読む限り、大学の自治の原則にのっとって教授会の意思が決定され、まっとうな手続きをへて、久保教授は「教員として不適格」と認定されたように見える。ところが、この弁明は、重要な事実をいくつも伏せることによって、そのように見せかけているにすぎない。以下、「三重タイムズ」の報道と久保教授の証言に基づいて、ことの経過を時間にそって再構成してみよう。

久保教授は一昨年[平成10年]の夏に、映画「プライド」を見るように学生たちに勧めた。昨年[平成11年]の八月十二日、久保教授らは「人権センター」を訪れ、展示内容の是正を要望した。同年八月二十日付の「三重タイムズ」は、このとき久保教授が「人権センターになっていない。実態は同和解放センターだ。もっと人権全般についての啓発をしてほしい」「戦争の扱いが偏向している。蔵書や展示に日本軍や日本人の加害ばかりが目立つ。日本人が受けた被害についてまったく触れられていない。戦争は最大の人権侵害であり、一方が絶対正しく、一方が悪いというものではない。事実は事実としてバランスの取れた啓発をしてほしい」と発言したと報じている。なお、このときの久保教授らの要望に対して、人権センターの馬場佐所長は「人権センターは誕生してまだ三年目だ。これまでの長い同和行政の流れがある。そのため同和関係の図書やビデオなどが多い。今後、内容を整理するなかで検討したい」「戦争についての蔵書やビデオなどは、バランスの取れた内容にするよう努力している。展示についても公正なものにするよう配慮したい」と答えている。

 この時点では人権センターについての発言も、「プライド」鑑賞の勧めも問題視されることなく、久保氏は、教授会の承認を得て、昨年[平成11年]十月一日に助教授から教授に昇格した。ところが、同年十一月五日付の「三重タイムズ」紙上で、久保教授が、編集長のインタビューに答える形で、再び人権センターについて「想像以上にひどいものでした。人権センターといってもほとんどが部落問題で占められている。あとの二割ほどが反日、自虐史ですね。どういう子どもや日本人を育てようとしているのかと疑問に感じるような施設です。このセンターで真面目に勉強する子どもがいたら、将来が本当に心配になります。このような施設を公費で建設したこと自体疑問ですね」と発言すると、鈴鹿国際大学側は、途端にこの発言を問題視しはじめた。

 まず、勝田学長が、十一月二十九日に久保教授を呼び出して、おおむね次のように責めたという。
「この間の君の新聞、ざっと読んだだけだが、大変なことをしてくれたね。問題になっているのだよ。君、部落問題は本当に怖いのだよ。彼らが大学に押しかけてきたらどうするのかね。その時は君に責任をとってもらうしかない。君が彼らに頭を床に擦り付けて、まず謝りに行き云々」
「私は表に出ることはできないからね。私が出るということは大学の問題になりかねない。もし君が助けを求めるなら、共産党に助けを求めなければならない。そのようなことは君も嫌だろう?」
「ただ大学に迷惑がかからないよう、君は責任とらなければいけないよ」(久保教授の手記より。以下の引用もおなじ)。

次いで、十一月三十日に、久保教授は大学の事務局幹部から次のように言われている。「三重県同和課の○○課長(名は忘れたがどうも女性のようである)から先生の件で問い合わせがあり、私は慌てて、シラバス・調査書などの書類を持っていった。人権センターの記事は、私の見る限り、同和問題ですよ」と。

 さらに、十二月三日にも、久保教授は、大学当局者数名から次ぎのような話しを聞かされている。「この日曜日(十一月二十八日)にたまたま三教組の役員とあった。そして久保先生のことを聞かれた。久保先生の新聞記事は全国で最も強い三教組に戦いを挑んでいることになる。また久保先生の場合、とくに三重県人権センターの『八割が同和問題の展示である』という内容の記事に問題があるが、学長もそれに激しく怒っている。理事長も同意見なので、久保先生は辞表を提出してもらいたい」
「大学がつぶれたら困る。学長が決断されたのだから学長を傷つけないでほしい」
「学長に晩節を全うさせてあげてください」。

 十二月八日、再び久保教授は勝田学長に呼びつけられ、この時も辞職を勧告されたという。久保教授は「この時の会話もテープで記録したが、内容があまりに醜悪で、大学の存亡にかかわる可能性もあり、公表を差し控えている」のだそうだ。しかし、「本裁判となれば、不本意ではあるが裁判資料として提出せざるを得なくなるだろう」とのことだ。

 この後、久保教授の「教員適格性審査委員会」なるものが組織されたようだが、このことは久保教授に知らされることも、教授会に諮られることもなく、学長の独断でおこなわれたらしい。この委員会は久保教授から直接事情を聞くこともしなかった。この委員会の結論が提起された十二月二十二日の臨時教授会の開催は久保教授には知らされず、完全な欠席裁判であった。このような大学当局のやり方に反発した教授が六、七名ほどいたため、この日の教授会では「久保教授解任」の承認にはいたらず、単に「委員会からの報告を聞いた」というに止まったという。

年が改まった平成十二年一月十一日、久保教授は、授業を休講にして名古屋にある享栄学園本部に出頭するように命じられ、ここで理事長ら数名から事情聴取を受けている。この時から「講義内容、卒業アルバム、映画『プライド』鑑賞などの質問も新たに加わった」という。そして「明日からトラブルを避けるため、講義・教授会などに出ることを暫く自粛せよ」と命じらたそうだ。

 そして、一月十七日、再び学園本部に呼び出され、戒告書と事務職員への降格の辞令を渡された。この理由について、戒告書には、次のように記されていた。「平成十一年十一月五日付けの『三重タイムズ』誌上(マヽ)での鈴鹿国際大学教授の肩書において行った発言、これまでの講義方法等(東条英機に関する映画の鑑賞を強要するかのような指導等)及び公的機関である三重県人権センターに対する誹謗ともとられかねない発言などは、当学園の名誉と品位を害し、当学園の生徒・学生の募集に悪影響を及ぼし、その他関係機関との信頼関係を著しく失墜させるものであって、当学園の職員としてふさわしくない言動であった」。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-10-19 10:01 | 不掲載・未発表
(平成12年5月中旬稿)


《八木氏の「名誉のために一言」》

勝田氏は「いわゆる“TPO”を離れていわば“無重力の真空”の中でこの種の問題をあげつらうことは易しいこと、手軽なことである。当地の事情にうといとも思われる一助教授が、大学当局の『醜態』を論難することは、私の大学の全教職員から見るなら“気楽な批判”としか思われない」と、八木氏を批判している。ところが、私たちとの座談会において、八木氏は、学長を含む大学当局の対応、というより勝田吉太郎学長個人の対応を「醜態」と断定する明確な根拠を示していたのである。

 しかし、八木氏は、自分の発言のの趣旨はあくまで三重県教育界を支配するある「空気」を批判し、大学人・言論人として学問の自由・言論の自由を守ることにあるのであり、勝田氏への個人攻撃と誤解されることは本意ではないと判断されたのだろう。発売された『諸君!』五月号では、その部分の発言がカットされている。そのような八木氏の配慮を知ってか知らずか、勝田氏は八木氏が軽率に言葉を弄しているかような物言いをしている。したがって、八木氏の発言を直に聞いた者として、八木氏の“名誉のために”に、カットされた発言をここで復活させざるをえない。

八木氏は、最初、久保発言に対する勝田氏の対応を聞かされたときに、自分の耳を疑ったと述べ、その根拠として、一枚のハガキを示した。それは、八木氏からの著書の寄贈に対する平成十一年七月二十七日付の勝田吉太郎氏本人の礼状だった。そこには、おおむね次のような言葉が添えられていた。

 「教育の問題も、つきつめたところ、タブー中のタブーの部落の問題に行きつきます。三重県も、大きな問題を抱えております。どうか、タブーに挑戦、破って下さい。(いまの保守は、ダラシのない保守ばかりですね)」

なんと「当地の事情」を八木氏に伝えたのは当の勝田氏だったのだ。八木氏に部落問題についてのタブーを破れと焚きつけ、自分の大学の教員が同和問題に言及すると「大変なことをしてくれたね」と非難し、八木氏の批判に接すると「当地の事情にうとい」と言ってこき下ろす。このような振る舞を、「醜態」「あまりにだらしない」と評しても不当ではない。少なくとも、私たちは何の違和感も感じなかったと申し上げておく。

 なお、「三重タイムズ」の名誉のためにも、ここで「一言」弁じなければなるまい。というのも、勝田氏は「三重タイムズ」について、「週一回発行され、津市近辺で地方紙の中に折り込み広告紙の形で配布されるもの。これまでのところ久保先生の立場を専ら擁護する傾向のミニコミ紙のようにみえる」と述べ、「三重タイムズ」がまるでまともな報道機関として認知されがたい類のもので、その記事を根拠にした八木氏の発言は信ずるに値しないかのような物言いをしているからだ。

 しかし、「三重タイムズ」は「中日新聞」の折り込み新聞であり、発行部数は七万部である。「中日新聞」は「地方紙」なのか、七万部という発行部数は「ミニコミ」なのか。現在、三重県では教育改革が急速な勢いで進んでいるが、この改革を進める上で「三重タイムズ」の報道と論説が大きな役割を果たしてきたことは周知の事実である。「三重タイムズ」の記事の正確さと、勇気ある報道姿勢とは、県議会議員をはじめ多くの県民、マスコミ関係者が一致して認めているところだ。

 もちろん、久保事件についても諸方面(鈴鹿国際大学も含む)に取材した上で記事を作成している。これらの事実を無視して「当地の事情」などと言えたものではない。もし、「三重タイムズ」の記事がデタラメだというのなら、編集部に抗議し、訂正を求められてはいかがだろうか。しかし、現在のところ鈴鹿国際大学から抗議があったという話しは聞いていない。それに、編集長が問題なしと判断して掲載した発言について責任問題が生じた場合、その新聞が発言者を擁護するのは倫理的に当然、とういうよりもそうでなければ報道機関としての信用を保つことはできまい。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-10-18 07:10 | 不掲載・未発表
(平成12年5月中旬稿)


《どちらが“やりすぎ”か》

 まず、勝田氏は教職員を食わせていくために、私立大学の学長が如何に苦労しているかという話しから筆を起こしているのだが、その苦労話を聞かされた元大使で最近鈴鹿国際大学の教授になったという勝田氏の旧友の発言がのっけからとんでもない。
「大使の方が学長よりずっと優雅なポストだね」
一私立大学の学長ほどの責任感もなく“日本国の大使”を務めていたとは開いた口が塞がらない。このような人物を大使に任命した外務省は重大な人事ミスを犯したというべきだろう。

 次いで、勝田氏は“今まであんなに原稿を書いてあげたのに”とでも言いたげな威圧とも愚痴ともつかない言い回しで、八木氏の発言を掲載した『諸君!』編集部に対する当てこすりを述べ、それに続けて本格的な弁解をはじめるのだが、それがとりもなおさず『正論』六月号で私が指摘した「大学人は大学経営に支障が無いと経営者が判断する限りにおいて思想・言論・学問の自由を有する」という大学当局の本音の吐露になってしまっているのは皮肉である。

 勝田氏の弁解によれば、まず「久保先生の講義内容と方法に関して、学生たちからの苦情が私の耳にも達していた。それも随分前からなのだ。なかには口さがない連中が『久保先生は右寄りすぎる、大東亜戦争聖戦論者だよ』と言っていることも間接的に耳にした。だが私は、あえて久保先生を庇ってきた」という。当然だろう。京大教授当時に「反動教授」だとして、学生たちから糾弾を受けた経験を持つ勝田氏が、一部の学生の声を信じて、久保教授を見放したとすれば、それこそお笑い草である。それにしても「あえて」庇ってきたというのは、どういう意味なのだろうか。口さがない連中に「大東亜戦争聖戦論者」と批判されるような講義をするのは実は怪しからんことなのだが、とでも言いたいのだろうか。『日本は侵略国家ではない』(善本社)と題する本の編者を務めた経験もある勝田氏だが、この際、その大東亜戦争観を端的にご説明願いたいと思うのは私だけではあるまい。

 ついで勝田氏は、久保憲一教授が「『東京裁判』批判の映画『プライド』を学生たちに観るよう強く勧め、その入場券をレポート用紙の上に貼って提出した学生に『加点』するにいたっては、残念ながら『学問の自由』という大義を損なうものだと判定せざるをえなかった」と書いている。その理由は「私の解するところ『学問の自由』とは、異説を述べる自由をも許容するものでなければならない。教壇の上から学生に対して一定の思想と学説を強制するかのような講義方法は好ましくないと思うからだ」そうだ。

「入場券をレポート用紙の上に貼って提出した学生に『加点』する」というのは、“確かに少しやりすぎだ”と、私も思う。しかし、この程度の“やりすぎ”を口実にして、教授職から事務職へ降格することの方が“もっとやりすぎ”だろう。こんなことが罷り通れば、今後、事務職員に降格される大学教員が続出するにちがいない。なにしろ、自らが教育上好ましいと判断した教材を、学生に買わせたり、見せたりするのは、大学教員としての本来の仕事であるし、「何々を読んでレポートを出せば加点してやるぞ」というのも、成績が思わしくない学生を救済するための常套手段だからだ。久保氏が「『プライド』の内容を賛美するレポートを提出した者には加点し、批判した者は減点する」と言ったのならともかく、学長から「好ましくない」と思われる程度の授業方法をつかまえて、まるで鬼の首でもとったかのように「『学問の自由』という大義を損なうもの」だとまで大仰に断じてしまうのは、いくらなんでも言い過ぎであろう。むしろ、ここまで言を弄さなければならない勝田氏の方に何か後ろめたいものがあるのではないか、と感じてしまうのは私ばかりではないだろう。

 事実、“「プライド」鑑賞を学生に強く勧めたことが怪しからぬ”というのは、鈴鹿国際大学当局が後から取って付けた理由に過ぎない。久保教授が学生に鑑賞を勧めたのは一昨年の夏のことで、それにもかかわず、久保氏は、昨年十月一日に教授会の承認を得て助教授から教授に昇進している。勝田氏の言葉が真実ならば、勝田氏は降格処分に相当すると自らが考える事態が発生していることを知りながら、一旦は久保氏の教授昇格を黙認し、その後一転して事務職員への降格を認めるというダッチロールを繰り返していたことになる。

処分理由についての説明の最後で、勝田氏は「ついに久保先生を庇いきれない事態が発生した」と書き、それが「三重タイムズ」に掲載された県立の「人権センター」批判の一文だったとする。久保教授の発言は「どうみても、人権同和問題の重要性に関して鈍感かつ著しく慎重さを欠いたもの」だったのだそうだ。久保発言の内容については、後ほど紹介して読者のご判断を仰ぎたいと思うが、とりあえずここでは、勝田氏の同和問題に対する感覚について、問題提起をしておきたい。勝田氏が考えている同和問題に対する“敏感さ、慎重さ”とは、「君、部落問題は本当に怖いんだよ。彼らが大学に押しかけてきたらどうするのかね」という久保教授に対する叱責(平成十二年二月二十五日付「三重タイムズ」)から推測すると、同和関係団体をひたすら恐ろしい存在と感じ、とにかく押しかけてこられたら困る、といった感覚のようである。このようなセンスは、本当に、同和問題に関して持つべき正しい感覚なのだろうか。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-10-17 07:23 | 不掲載・未発表