新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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カテゴリ:書評( 10 )

『日本の息吹』(平成22年2月号)

 平成十八年九月六日、悠仁親王殿下がご誕生になられた。この年は、年始早々、「皇室典範に関する有識者会議」の報告書に基づいて、「女性・女系天皇の容認」「長子優先」を骨子とする皇室典範改正案が国会に上程され、そのままであれば可決成立するはずだった。ところが、二月七日、突如、紀子殿下ご懐妊が報じられ、上程は中止。さらに悠仁殿下のご誕生によって法案はお蔵入りとなった。

 その直後、扶桑社発行の季刊誌『皇室』は、四回にわたって櫻井よしこ氏と大原康男氏の皇位継承問題を中心とした対談(司会・茂木貞純氏)を掲載した。本書はその連載に、櫻井・大原両氏による現時点での「皇位継承」問題の動向分析と今後の課題に関する新たな論考を加え(第一章)、さらに茂木貞純氏による「神話から現代に続く天皇の歴史」と「皇室を理解するためのQ&A」(第二章)、有識者会議の報告書の全文ならびに現・旧皇室典範などの資料集(第三章)とからなっている。

 本書の内容の特徴を大まかに言えば二つである。一つは、皇室について極めて深い造詣を有する識者による「天皇入門」の書であるということだ。皇位継承問題は天皇の本質と切り離せない。そこで、まず、天皇の本質を「政治」「文化」「宗教」という三つの方向から論じ、天皇には“日本の秩序の中心”“文化・学問の庇護者・継承者”“社会活動の実践者”“神様を祀る祭り主”といった役割があるとする。

 本書の特徴の二つ目は、もちろん、皇位継承をめぐる問題の整理とその解決策の提示である。言い換えれば、皇位の男系継承を維持することのこの上ない重要性の指摘と、その方策の提案である。示唆に富む多くの議論の中で、今回、私が改めて大切だと感じた点は、いま皇室が直面して居られる男系継承の危機は、自然発生的なものではなく、GHQの圧力による十一宮家・五十一人の方の皇籍離脱という皇室弱体化のための意図的、人工的な政策が根本原因であるということである。

 このことを踏まえ、一貫して男系を維持してこられた皇室の歴史に思いをいたせば、“心ならずも皇族たる身分を離れざるを得なかった方々の男系の御子孫の中から適切な方に皇籍を取得していただいて宮家を新たに創設していただくという宮家の拡充策”こそ、皇室典範改正の第一義でなければならないという本書の主張に違和感を抱く者はいないであろう。

 しかし、残念ながら、悠仁殿下ご誕生の後の政治情勢もあって、皇室典範には全く手がつけられていない。その間隙を縫うように、女系天皇容認論も息を吹き返しつつある。民主党政権の本質を考えれると、これは極めて危険な状況と言えよう。そうであればこそ、多くの良識ある人々に本書を手にとっていただき、深く本質を理解していただきたいと切に願う。
 
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by nitta_hitoshi | 2010-02-16 08:55 | 書評
「産経新聞」平成21年5月3日「この本と出会った」
(『7つの習慣 成功には原則があった!』ティーブン・R・コビー著、川西茂訳、キング・ベアー社・2039円)


 「必ずしも自分と思想信条が同じでない人たちと、満足のいく仕事をするにはどうしたらいいのか」「道徳を学ぶことと事業を成功させることとは、どうつながるのか」。教育改革運動や学内行政に係わる内に、こんなことを自問自答するようになった。「ダメだ、間違っている」と見える考えや人物を否定し、「これがいい」と思うことを主張してきたが、それでは、仲間もできるが敵も増え、「これ以上の広がりは無理だな」と感じることが多くなったからだ。
 この悩みに応えてくれそうな本に最近出会った。ティーブン・R・コビーの『7つの習慣ー成功には原則があった!ー』である。コビー氏の主張の最大の特徴は、成功のためのテクニックに走る個性主義を排して、人格を土台とした在り方(パラダイム)の重要性を指摘していることと、人生を競争と見て、誰かが勝てば、誰かが負けるとする「Win-Lose」あるいは「Lose-Win」のパラダイムから、人生を協力の舞台と見て、全員を満足させる第三案が必ずあるはずだと考える「Win-Win」のパラダイムへの転換の必要性を強調していることである。
 これまでにも、人間の善性を論じた本はたくさん読んできた。しかし、自分のパラダイムそのものは、結局「Win-Lose」で、競い合い、争い合いのゼロサム・ゲームをやってきて、その限界を感じはじめていたのだな、と気づいた。この本には、内面的主体性の意義、勇気と思いやりのバランスの大切さ、相手の感情を聞き取ることの意味など、「Win-Lose」のパラダイムから抜けだすためのヒントがいっぱいつまっている。しかし、それを一度に理解し、全部覚えていることは難しい。そこで、毎朝一節づつ読んで、その日の目標を決めるのが、現在の私の日課になっている。

 
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by nitta_hitoshi | 2010-01-12 09:29 | 書評
寒気立つ現場の実態を鋭く告発(『正論』平成15年1月号掲載)

「だって、先生が『ピルを飲めば絶対大丈夫』って言ったんだもん」《親だけが知らない衝撃の実態をレポート!》とは、本書の「帯」の言葉である。この帯だけで、世が世なら発禁処分、どこかよその国ならば「有害図書」に指定されてビニールをかけられてしまいそうだ。ところが、本書の内容はいたって真面目である。『教育黒書』というタイトルから予想される通り、日本の教育現場の実態を鋭く告発したものではあるのだが、単なる暴露本ではないし、かと言ってお堅いだけの論文集でもない。というのも、そこには切なる願いと、巧みな戦略とがあるからだ。

 日本に先立つこと約三十年前、英国の教育は教職員組合の専横や反国家・自虐教育の横行により、学力低下や校内暴力の頻発といった危機に見舞われた。この時、学者・保護者・教師が立ち上がり、教育の実態を告発した本を次々に出版して、国民に教育の荒廃を訴えた。この市民運動に応えたのが一九七九年に誕生した保守党サッチャー政権で、「一九八○年教育法」の制定を手始めとして、以後次々に教育改革策を打ち出していった。編著者である八木秀次氏の序文によれば、本書刊行の意図は、「教育黒書運動」と呼ばれたこの英国の先例に倣おうとするものである。

 多彩な執筆陣による掲載論文の全容を、この小論で紹介することはとてもできないので、本書の特徴を一つだけあげれば、「ジェンダーフリー教育」批判ということになろうか。男女平等教育と性差解消教育との恐るべき違いについての蒙を啓くという意味で、八木氏と山谷えり子衆議院議員との対談は、先ず目を通すべきものだろう。

 そして、この議論の各論として、ジェンダーフリーが“家庭科教科書”に及ぼしている害毒を分析してみせたのが、八木氏の「お父さん。お母さん。ご存じですか? 男女共修『家庭科』ではこんなことが教えられている!」と、高橋史朗氏の「ファロスを矯めて国立たず」である。

 さらに、三重県公立中学校教諭・渡邊毅氏によるジェンダーフリー“性教育”の詳細な実態報告も注目に値する。「すてきなセックス、最高のふれあい」(小学校)や「性を楽しむために低用量ピルをゲットしよう」(女子高校)などと題する授業の内容は、あまりのことに、にわかには事実だと信じがたい。

 この他にも、ゆとり教育、人権教育、国旗・国歌教育、原発教育など、まだまだ多様な批判的報告がつまっている。

 今日の教育について何かしらの疑問や不満を感じながらも、学校という閉ざされた空間の外側でもどかしい思いをしてきた人々にとって、本書は大いなる助けとなることだろう。何故なら、各地における情報公開法の整備によって、本書類似の情報は一般市民にも入手可能となり、誰でも動かぬ証拠をつかめるようになってきたからだ。

 私としては、本書が一人でも多くの人の手にするところとなり、次々に類書が刊行されて、教育の危機に対する国民に認識が深まるとともに、その危機感をしっかりと受け止められる保守政治家が現れることを期待したい。この国と子供たちの未来のためにー。
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by nitta_hitoshi | 2009-09-23 17:55 | 書評
(『正論』平成15年10月号)

○素晴らしさ伝える優れた実践報告

 すでに「自虐史観」批判の時期は過ぎて、誇りある歴史を次代を担う子供たちにどう伝えるのかが問われつつある。「破邪」から「顕正」へ、さらに、「顕正」を的確に伝達する技法の開発へ、と時代のニーズは移りつつある。しかし、残念ながら、それについての“私達の用意は十分でない”と、かなり前から感じていた。そんな思いに応えてくれる本がようやく現れた。

 本書は、小学校の教師である著者が実践した、全六十八時間の日本史授業の中から八時間分を選び、六章にまとめたものである。

 内訳は、歴史入門の授業「歴史の中にはご先祖様が生きている」、聖徳太子の授業「仏様か、神様か」、続・聖徳太子の授業「遣隋使の国書」、鎖国の授業「西洋とどうつきあうか」、明治の改革の授業「廃藩置県に賛成か反対か」、昭和の戦争の授業「東京裁判について考える」。

 いずれの章も、“歴史とは、他者に語り聞かせようと意識した時にこそ、その要諦を現わすものなのだ”と気づかせてくれる優れた実践報告となっている。中でも、「そういう方法があったのか!」と膝を打ったのが、歴史入門として、「先祖」を取り上げていることだった。

 若者に日本史の素晴らしさを伝えようと試みたことのある教師なら、おそらく誰もが体験していることだろうが、「それがどうしたの?」という無関心の壁、「私に何の関係があるの?」という無関係の壁、「そんなに日本にこだわらなくてもいいんじゃないの?」という相対化の壁にぶつかる。それを著者は、誰にでも必ずいる「先祖」という存在に気づかせることによって克服している。いつの時代にも、この国には自分たちの命に連なる先祖たちが生きていた。その先祖達たちを通じて、ずっと「命のバトン」と「国づくりのバトン」が受け継がれてきた。そう気づかせる中で、日本の歴史を「わがこと」として意識させることに成功しているのだ。

 この授業を受けて、「子孫を残すのも大切だなと思いました」という感想を書いている児童がいた。子育てよりも自己実現、家庭よりも仕事。先祖から営々と受け渡されてきた遺産を一代限りで使い果たしたって構わない。子孫のことなどどうだっていい。「ジェンダーフリー」と呼ばれる「放蕩息子」「放蕩娘」の思想が教育現場に蔓延している昨今、齋藤先生の実践は、それに対する効果的な「解毒剤」をも提供するものであるといえそうだ。「正しい歴史教育」こそ、まさに「最良の道徳教育」なのだと教えられた。

先祖とのつながりを意識できてはじめて、光輝ある自国の歴史も意味を持つ。当たり前だが、多くの人々が忘れていた。教育者の目が、問題意識が、その勘所を明らかにした。さて、それでは、慧眼の著者によって語られる日本歴史の要諦とは? ここから先は読んでのお楽しみ。読者諸氏みずらが本書を手にしてご確認いただきたい。
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by nitta_hitoshi | 2007-05-06 14:35 | 書評
寒気立つ現場の実態を鋭く告発(『正論』平成15年1月号)


「だって、先生が『ピルを飲めば絶対大丈夫』って言ったんだもん」《親だけが知らない衝撃の実態をレポート!》とは、本書の「帯」の言葉である。この帯だけで、世が世なら発禁処分、どこかよその国ならば「有害図書」に指定されてビニールをかけられてしまいそうだ。ところが、本書の内容はいたって真面目である。『教育黒書』というタイトルから予想される通り、日本の教育現場の実態を鋭く告発したものではあるのだが、単なる暴露本ではないし、かと言ってお堅いだけの論文集でもない。というのも、そこには切なる願いと、巧みな戦略とがあるからだ。

 日本に先立つこと約三十年前、英国の教育は教職員組合の専横や反国家・自虐教育の横行により、学力低下や校内暴力の頻発といった危機に見舞われた。この時、学者・保護者・教師が立ち上がり、教育荒廃の実態を告発した本を次々に出版して、国民に教育の荒廃を訴えた。この市民運動に応えたのが一九七九年に誕生した保守党サッチャー政権で、「一九八○年教育法」の制定を手始めとして、以後次々に教育改革策を打ち出していった。編著者である八木秀次氏の序文によれば、本書刊行の意図は、「教育黒書運動」と呼ばれたこの英国の先例に倣おうとするものである。

 多彩な執筆陣による掲載論文の全容を、この小論で紹介することはとてもできないので、本書の特徴を一つだけあげれば、「ジェンダーフリー教育」批判ということになろうか。男女平等教育と性差解消教育との恐るべき違いについての蒙を啓く意味で、八木氏と山谷えり子衆議院議員との対談は、先ず目を通すべきものだろう。

 そして、この議論の各論として、ジェンダーフリーが“家庭科教科書”に及ぼしている害毒を分析してみせたのが、八木氏の「お父さん。お母さん。ご存じですか? 男女共修『家庭科』ではこんなことが教えられている!」と、高橋史朗氏の「ファロスを矯めて国立たず」である。

 さらに、三重県公立中学校教諭・渡邊毅氏によるジェンダーフリー“性教育”の詳細な実態報告も注目に値する。「すてきなセックス、最高のふれあい」(小学校)や「性を楽しむために低用量ピルをゲットしよう」(女子高校)などと題する授業の内容は、あまりのことに、にわかには事実だと信じがたい。

 この他にも、ゆとり教育、人権教育、国旗・国歌教育、原発教育など、まだまだ多様な批判的報告がつまっている。

 今日の教育について何かしらの疑問や不満を感じながらも、学校という閉ざされた空間の外側でもどかしい思いをしてきた人々にとって、本書は大いなる助けとなることだろう。何故なら、各地における情報公開法の整備によって、本書類似の情報は一般市民にも入手可能となり、誰でも動かぬ証拠をつかめるようになってきたからだ。

 私としては、本書が一人でも多くの人の手にするところとなり、次々に類書が刊行されて、教育の危機に対する国民に認識が深まるとともに、その危機感をしっかりと受け止められる保守政治家が現れることを期待したい。この国と子供たちの未来のためにー。
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by nitta_hitoshi | 2007-03-23 09:21 | 書評
神社新報(平成15年2月24日)

文に毒を含ませる達人の歴史評論

 松浦光修氏は名文家である。それもただの名文家ではない。文に毒を含ませる達人である。その毒は、偽善を積み重ねてきた安保世代の老人達や全共闘世代の人々に対しては強烈で、一生心に後遺症を残すような性質のものであるらしいが、松浦氏と志を同じくする者には魂の癒しとなり、若い世代にとっては解毒剤にもなるらしい。

 その松浦氏がこれまで書きためてきた毒、ではなくて歴史評論を一冊にもとめられたのが本書である。名付けて『やまと心のシンフォニー』という。ご本人は当初『日本思想の詩[うた]』という題にしたかったようだが、「思想」も「詩」も、今日では全く本が売れない分野のトップ・テンに入るらしく、編集者にあっさりと拒否され、このような柔らかい題になったのだそうだ。

○文学と歴史学二つの背景

 書きためた時期は昭和六十二年から平成十四年までの十六年間、扱っている時代は神武天皇から現代までに及ぶ。通常このように広い時代にわたる評論は、裏付けのない奇抜な思いつきの羅列か、退屈な通史に堕する危険性が高い。本書がそれを免れて、豊かな発想と確かな実証との巧みな組み合わせに成功しているのは、おそらく、著者が幼い頃から学校の勉強そっちのけで続けてきたという文学作品の読破と、大学院以来地道に実行してきた原史料の発掘調査を旨とした着実な国学研究という、二つの背景があるからに相違ない。

 平安時代に現代の鏡を見る「芳香の影」、近世民衆の尊皇心を論じた「菊の下草」、大東亜戦争をアジアの視点から語った「マカオの月光」、徳富蘇峰と平泉澄という二大巨人の感応を“「悲劇」のうちに見られる「貴い精神」”に見出した「二つの史魂」など、本書には、簡にして要を得、明確にして魂に響く物語が満載されている。

○若者の渇きに応える書

 発売後まだ日も浅いが、すでに学生たちの中には、絶大な影響を受ける者が出始めており、次のような感想が寄せられているという。「喜びに頬は濡れ、何度読み返しても嗚咽は止まらない」「英霊にまつわる一連の話は読んでいるうちに涙が出てきて止まらなくなった」「この章〔マカオの月光〕を読み、私はとても嬉しく思いました。戦後の歴史教育を受けて来た私たちには、第二次世界大戦における日本は野蛮極まりない国であり、また侵略し、女を犯す日本兵には悪鬼さながらのイメージをもっていました」「感銘を受け、感泣を禁じえませんでした」。

 何やら小難しいが中身のない学問らしき講義や、要するに祖国や祖先を貶めたいだけの説教に辟易している若者たちは、素直に祖国の大地に根を張り、力強く生きていける明るい物語を欲しているようだ。本書が、そのような若者の渇きに応えつつあることは誠に喜ばしいが、しかし、よく考えみれば、それは残念なことでもある。

 学生たちが、これほどまでに感激し、回心しているということは、裏を返せば、心にしみる物語にこれまでまったく触れる機会がなかったということだろう。これが他大学の学生ならまだしも、「祖国愛の精神を教育培養」することを旨とする、我が皇學館大学にしてそうなのである。偉そうに評論する前に、私自身よくよく襟を正して、本書の語るところに謙虚に耳を傾けるべきなのであろうと深く反省した。
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by nitta_hitoshi | 2007-03-19 10:51 | 書評
[『正論』平成14年9月号]

○“愚かなへつらい”を排除してこそ

 時あたかもワールド・カップ共催で日韓友好ムードが最高潮に達している中で本書は刊行された。想い起こせば、ベストセラーとなった前著『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』(同じく小学館文庫)の出版も、『新しい歴史教科書』の検定合格・採択をめぐって、中韓が日本政府に記述の修正を要求し、それを文部科学省が拒否し、怒った韓国が制裁措置を次々に発動する、といった時期だった。だから、状況だけから判断すれば、著者の勝岡寛次氏はよほど韓国が嫌いなのだろうと早合点してしまいそうになる。ところが、著者は、教育セミナーを毎年開催している日韓教育文化協議会(日本側代表は草開省三氏、韓国側代表は安長江氏)の日本側事務局長を務め、地道な相互理解に尽力してきた人物なのだ。ならば何故、タイトルを見ただけで日韓友好が破れてしまいそうな本を次々に出版するのだろうか。

 それは、真の友好を願えばこそ、“日韓・歴史教科書・併合”という、独立国家の国民同士の関係としては最悪の事態をもたらしかねない“愚かなきへつらい”を排除したいと熱望しているからのようだ。著者は、日本政府が進めている「日韓歴史共同研究」を様々な角度から検討し、それが如何に問題多きものであるかを次々に暴いていく。まず序章では、まるで裏取引でもあったかのように、昨年は拒否した韓国による修正要求にしたがって、文科省が今年は高校用『最新日本史』(明成社)を検定した事実を指摘し、第一章で「日韓歴史共同研究会委員会」設立に至る経緯と問題点を記し、第二章では過去に民間で行われてきた共同研究が、おおむね「日本による侵略」という歴史観のみを前提とした日本の教科書についての一方的検討でしかなかったことを批判している。

 次い第三章では視点を変えて、“日本も見習え”といわれるヨーロッパにおける教科書対話の実状を取り上げ、それがまだ「各国の記述の違いを自覚する段階」にとどまっているにもかかわらず、日本では国家を解消しようとする試みででもあるかのように意図的に歪曲して伝えられていることを指摘する。第四章では、歴史問題で韓国側が国益よりも学問的真理を優先できるとは考えられず、実質的に言論の自由の無い国との認識の共有などできるはずもないと主張し、さらにその理由を具体的に明らかにするために、第五章で日韓史上の様々な争点を挙げて解説している。現状では歴史「事実」の共有さえ不可能なのに、まして歴史「認識」の共有など出来るはずがないというのだ。

 著者は、観念的な説明に陥ることなく、常に証拠を挙げて、一つ一つの主張を具体的に裏付けながら議論を進めていく。読み進む内に、これまで漠然と感じてきた疑問に確かな根拠が与えらていく手応えを感じる読者も多いことだろう。愛国や友好の熱情ととは、このような形で昇華・凝固されるべきものなのだと感じさせられる一冊である。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-31 10:09 | 書評
[『明日への選択』(平成14年6月号)「選択読書室」]      


「力みもなく、躊躇もなく、実にすっきりとしてさわやかな姿の文章だ。明治憲法について、こういう書き方ができる時代になったんだなぁ」というのが、率直な読後感だった。一昔まえだったら、こんなに気負い無く明治憲法を弁護することなどできなかっただろう。そこには時代の変化が確かにある。しかし、本書の「さわやかさ」のよってきたる所以はそれだけではないだろう。

 著者は、世界の「総アメリカ化」が進む現代において、各国はそれに抗するために国家としてのアイデンティティーを明確にしようと努めているとの時代認識に立ち、日本の国柄についての議論こそ、今日の憲法論議に不可欠だと主張する。ところが、その議論の貴重な参考となるべき明治憲法は、現憲法との対比で不当に貶められたままである。これではならじと、明治憲法の冤罪を濯ぐと同時に、そこから学ぶべきものを探求しようというのが本書の目的のようだ。

 こういった書物に往々にしてみられるのが「贔屓の引き倒し」的な弁護や賞賛であるが、本書にはそれがない。それは、「先行研究に広く目配りする」「著名な文献は丹念に読む」といった、当たり前のようでありながら、実は多くの知識人が疎かにしている基本作業を淡々と実践しているからだ。しかも、多読の論者の著述に多い「要するに何が言いたいのか分からない」といったもどかしさもない。「複雑な事情を知悉した上で、大胆に断定する」という臆病な研究者にはとてもできないことを、これまた飄々と行っている。こんなわけで、本書は明治憲法の勘所を知りたいと願う読者が第一に読むべき入門書となることだろう。

 内容について一言すると、著者が力説したかったことの一つは、憲法の起草に当たった指導者たちがドイツの法学者らから学んだことは、君主権の強化などという小手先のことではなく、「法はその国の歴史に根ざしたものでなければならない」という大原則、心構えだったということらしい。このような伝統文化を尊重する法学思想(歴史法学)は、当時の欧州で流行していた最新の学説であるとともに、英国の思想家バークに由来する、その意味で必ずしもドイツに限定されない普遍性を有する思想でもあったようだ。この歴史法学に依拠して起草された明治憲法は、同時に、世俗国家を目指した正真正銘の立憲主義憲法であったという。そう言い切れる根拠は何か。その憲法が何故いわれのない悪評を浴びせられることになったのか。こういった問いについては、直接本書を手にして読みと解かれることをお薦めする。

 私としては、多様な時事問題への発言の合間に、このような根気のいる学術書を纏められた著者の気力に敬意を表して、この拙い紹介を閉じたいと思う。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-15 09:53 | 書評
(「?」平成12年9月?)


 「日本国、まさに天皇を中心としている神の国である」。この森喜朗首相の発言を捉えてマスコミは、総選挙を前に、森バッシングの大キャンペーンを展開し、これに野党も便乗した。そこには、国家の精神的根幹に関わる事柄を「政争の具」とすることに対する懸念は微塵も感じられなかった。このような事態を前にして、心ある知識人は、森発言擁護の論陣を張った。

その論攷を集めて緊急出版されたのが本書、加地伸行編『日本は「神の国」ではないのですか』(小学館文庫/本体四七六円)である。本書は三部で構成され、第一部は資料として森首相の「神の国」発言の全文、新聞による批判、森首相の参院本会議での釈明、野党による批判、森首相のマスコミに対する釈明会見などが載せられている。第二部には加地伸行氏、佐伯彰一氏、長谷川三千子氏、ペマ・ギャルポ氏、山口昌男氏の論攷が収められ、さらに第三部には、大原康男氏、坂本多加雄氏、中西輝政氏、西修氏、西部邁氏の論攷が収録されている。

 今日の日本を代表する錚々たる保守派論客が「天皇」と「日本の神々」とを中心テーマとして日本論・日本人論を展開している。このことだけでも画期的で、一読に値することは言うまでもないが、私の印象をごく簡単に述べれば次のようである。

日本の「神」は唯一絶対神ではなく、象徴天皇制度の下でも天皇は日本の中心であるとの考えは各論者に共通しているようだが、中には「戦前の神道=悪」「戦前の天皇制イデオロギー=悪」との先入観に未だにとらわれているのではないかと思われる論攷もないではない。そうした中にあって、戦争の勝敗と思想の評価とを切り離し、思想それ自体の内容を吟味するという観点から「皇国史観の再評価」を試みている長谷川氏の論攷の“益荒男ぶり”は出色である。

 また、“公議輿論によって国民の意思を決定し、それを天皇が確認することによって国家意思が形成されるという国柄は、幕末以来今日まで変化していない”と、坂本多加雄氏は論じている。これは従来の坂本氏の議論を要約したものではあるが、主張がいっそう明確化され、戦前との断絶を強調する憲法学界一般の思潮に対する大胆な挑戦であることが浮き彫りとなっている。

 さらに、対外的な孤立でも追随でもなく、独自の価値観と習慣を保守する決意のもとに、論争の文化を再生することを提唱している中西輝政氏の論文も、これからの日本人のあるべき基本的姿勢を示唆していて興味深い。
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by nitta_hitoshi | 2006-10-25 07:51 | 書評
(「神社新報」平成18年9月25日)


 神社新報創刊六十周年記念事業として、葦津珍彦著・阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』の新版が刊行された。初版からはすでに十九年が経っている。今の日本の出版事情を考えると実に息の長い本である。本書が何故に長寿を保ち、さらに新版まで出されることになったのかと言えば、それは本書の刺激的な内容が学界や宗教界に大きな影響を与え続けてきたからに他ならない。その点については、本書に新たに付加された二人の若き研究者の解題(藤田大誠「『神道人』葦津珍彦と近現代の神社神道」、齊藤智朗「『国家神道とは何だったのか』と国家神道研究史」)に詳しい。したがって、本書の世間的な意味や評価については、両氏の解題を御覧いただくことにして、拙文においては、少し痴がましいが、本書の私にとっての意味について書きたいと思う。

 本書の私にとっての意味は二つある。一つは研究に対する意味である。私が日本の政教関係についての論文を書き始めたのは昭和六十三年のことだが、本書はその前年に出ている。振り返ってみれば、私の研究は、葦津氏が本書の中で提起した図式、解釈、課題にしたがって、それを吟味したり、精密化したり、発展させたりして来たと言っていい。こういう言い方は故人のお気に召さないかもしれないが、葦津珍彦というお釈迦様の掌を飛び回っていた孫悟空のような気がしないでもない。

「神社非宗教論」に対する浄土真宗の影響。「国家神道」の定義。「宗教弾圧」に対する考え方。大正昭和期の民間思想運動への注目。国家管理された神社神道に対する低い評価と在野の神国思想に対する共感。まぼろしの「国家神道」像を占領軍に諂った御用文化人が広めたとの指摘。

 最初の拙著『近代政教関係の基礎的研究』(大明堂、平成九年)は、浄土真宗の動きへの注目などを主軸として、「国家神道」という用語使用の不適切さを様々な角度から論じたものであり、その後の「国家神道」論の系譜の研究は、「国家神道」というまぼろしの形成過程を学説史という観点から追究したものである。さらに、『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP研究所、平成十五年)は、「現人神」という観念の形成過程という視点を加えて、いっそう包括的に、「国家神道」という幻想の発生・発展・定着の過程を論じものだった。

 本書の私にとっての意味の二つ目は、思想や信仰に関するものである。本書において葦津氏は、国家管理時代の神社神道について、「その精神は、全く空白化してしまった無精神な、世俗合理主義で『無気力にして無能』なものであったというのが歴史の真相に近い」と断言している。それなら、世俗合理主義を脱した神道とは何か。本書と同時期の『神国の民の心』には「神懸りの神の啓示によって、一大事を決するのが古神道だった」「神の意思のままに信じ、その信によって大事を決するのが神道ではないか」とある。

他方で、葦津氏のいう神憑りを重んじる信仰は、皇室による国民の精神的統合を否定する地方分散的なものでも、現世利益的なものでもない。むしろ、天皇の国平らかなれ、民安かれの祈りを尚ぶところに神道の本質を見、治国平天下の道を神々の啓示に求める。さらに、「天朝そのものへの信と、天朝の勅書への信とは時として異なることがありうる」と構え、「神典に阿らず、詔勅に阿らず」「師父に対する忠信忠誠によって、師父の言説を修正するすることもあり得る」と覚悟する。科学者と厳正同一の研究手続きを守りつつ、しかし、それが固有する根強い「不信の精神、疑いの精神」とは不断の緊張的対決関係に立つ(「神道教学についての書簡」)。これが内実ある神道者なのだと葦津氏は言う。その言葉は、私が神道や皇室について考えたり、書いたりする時に、いつも眼前にあった。

 ところで、本書の解題を若い研究者が担当したのは、「葦津先生の志や問題意識を継承し、発展させていく意味においても、あえて葦津先生の生前の姿を知らない若手の研究者たちに依頼する方が良い」との阪本是丸氏の考えによるらしい。「筆者にとって最も大事なことだと思われたのは、自らが『日本人』であり『神道人』であると自任しているのならば、現在にまで微かにも残されている『最後の一線』は何としても死守しなければならない、と言うことである」(藤田氏)。「国家神道が廃止された後の神社神道の将来あるべき姿の追求を、これからの神道人が行うべきことを指し示しているのではないだろうか」(齊藤氏)。彼らの解題の末尾に付されたこの言葉を見るとと、阪本氏の意図は十分の生かされたと言えそうだ。葦津氏の霊がこれからも彼らを導かれることを願って筆を擱く。
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by nitta_hitoshi | 2006-10-02 20:01 | 書評