新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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カテゴリ:雑誌( 20 )

平成14年11月1日『やすくに』

自虐史観にとらわれた反「ヤスクニ」

 さらに、「基幹運動」における反「ヤスクニ」の背景には、まさに「自虐史観」と呼ぶにふさわしい「西本願寺」の歴史認識がある。平成七年の四月、「本願寺派」は宗祖親鸞を祀っている御影堂において終戦五十周年全戦没者追悼法要を行った。そのときの法話で大谷光真門主は、次のような謝罪表明を、村山内閣に先立って行っている。 「私たちの教団は、仏法の名において戦争を肯定し、あるいは賛美した歴史を持っております。たとえ、それが以前からの積み重ねの結果であるとしても、この事実から目をそらすことはできません。」 「宗祖の教えに背き、仏法の名において戦争に協力していった過去の事実を、仏祖の御前に慚愧(ざんき)せずにはおれません。」 紙数の関係で詳しくはご紹介できないが、たしかに、戦前の真宗の戦争賛美は尋常ではなかった。それは宗教でないという理由で支那事変の勃発まで従軍がゆるされなかった神職の比ではなかったとも言える。だから、真宗が戦後的な価値観・戦争観に立つならば、門主がこのように言わなければならなかったのは無理からぬことである。

 このように見てくると、どうも今の「西本願寺」は、二つの罪意識によって雁字搦めになっているようだ。その一つは部落差別を行ってきたという事実、もう一つは近代の戦争に協力してきたという事実に由来している。この二つの罪意識に対する贖罪の思いから反神道的な左翼運動に駆り立てられているというのが、浄土真宗西本願寺派の現状らしい。そして、ふたふつの罪意識の重みに耐えかねて、その責任を「神道」になすりつけたい心理に陥っているようだ。最近になって、部落差別の原因として、「ケガレ」意識を強調する議論が現れてきて、神道的な、あるいは民族的な意識に注意を向けようとしているのも、そういうところに一つの要因があるのではないかと筆者は見ている。

 まるで、古代ヨーロッパで、フン族に圧迫されたゲルマン民族がローマ帝国になだれ込んでいったように、真宗上層部は罪意識に追い立てられて、神社神道に攻撃の矛先を向けている。つまり、自分たちの贖罪意識を満足させ、自らの反省の度合いを示す対象として、神社神道を攻撃しているというわけだ。

 自らも主体となって行ってきた部落差別という弁明の余地のない行為と、自衛・解放のために戦った大東亜戦争への評価とをごちゃ混ぜにすることは非合理も甚だしいし、まして、その責任を巧みに他者に転化しようとする態度は宗教者にあるまじき卑劣さだと思う。

 ただし、ここで認識を誤ってはならないのは、冒頭で引用した『真宗門徒と自治会』に書かれていることが事実だとすれば、末端の多くの真宗門徒は日本人としての常識的な感覚を持つ続けているということだ。ただ、それが「本願寺派」上層部の意向によって、素直に表現できず、抑圧されたり、ねじ曲げられたりしている。そうだとするならば、同じ日本人として、信仰の違いを超えて、手を差し伸べることが必要なのではないかと思う。

 なお、紙数の関係で、「基幹運動」の展開の歴史にはふれることができなかった。もう少し詳しく知りたいと思われる方は、本年十二月発刊予定の『政教関係を正す会会報』(第二十二号)に掲載予定の拙論「浄土真宗は靖國を語れるか」を御覧いただきたい。そうすれば、「基幹運動」に対して、「西本願寺」内部からも多くの疑問や批判が提出されている実態が御理解いただけると思う。(了)
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by nitta_hitoshi | 2009-09-11 12:54 | 雑誌
平成14年11月1日『やすくに』

「基幹運動」とは何か

 それでは、そもそも「西本願寺」の「基幹運動」とは何かということだが、平成十年度の「基幹運動計画」では、その理念が次のように説明されている。

「私たちの教団は同朋教団という旗を掲げながらも、部落差別を初めとする社会の差別構造を教団自身に反映して、自らの持つ差別性をいまだ克服し得ず、また、戦争・ヤスクニ・人権・環境などの平和や社会の問題にも消極的なあり方をしています。(中略)/基幹運動(門信徒会運動・同朋運動)は、このような社会と教団のあり方に目をそむけることなく、教団の中のさまざまな活動を一つひとつ点検して、自らと教団の差別の現実を改め、積極的に社会の問題に取り組み、御同朋の社会の実現に努める運動です。」

 これによれば、「基幹運動」というのは、どうやら、部落問題を核とした「反差別を掲げる社会改革運動」というのが中心課題のようだ。何故、浄土真宗がそんなに同和問題を重視しなければならないのかというと、被差別民の八割が東西両本願寺に属しており、さらにその八割が西本願寺に属しているという現実があるからだという。その人々を導いて差別の解消に努力してきたのなら問題にはならず、むしろ、栄光の歴史として記録されたのだろうが、実際には、「西本願寺」は教団自身が被差別民に差別戒名をつけるなどの行為によって、かつては差別の主体として働いていたという歴史を持っており、ここが宗門のアキレス腱となっているのである。

 そして、この反差別の社会運動たる「基幹運動」の中に反「ヤスクニ」闘争も含められているのである。「基幹運動」の重点項目の四番目には「戦争・ヤスクニの事実に学び、平和を尊ぶ仏教の精神を身につけよう」とある。このような項目を掲げる理由については、「靖国問題は私たちの日常生活の中にある『慰霊鎮魂・英霊賛美』の体質の問題でもあります。それを私たちの内にある『ヤスクニ』と捉え、課題としたのが片仮名で表記した意図であります」と説明されている。靖國神社の問題は、浄土真宗の信仰とは異なった神社についての問題、真宗の外側にある問題なのではなくて、自分たちの信仰の中にある慰霊・鎮魂という感覚そのものに由来しており、それを払拭しなければならないというのだ。

 真宗に詳しい人の話によると、真宗は戦後間もないころから東も西も民俗宗教の否定を掲げ、門徒の中に根強い先祖崇拝の否定に躍起になってきたという。これが「基幹運動」のもう一つの側面で、自らの宗門の中にある民俗信仰的な部分を「神道」であると見なし、それを払拭するために、ことさらに靖國神社を目の敵にしているらしいのである。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-10-23 11:41 | 雑誌
平成14年11月1日『やすくに』


1.「基幹運動」という反神道運動

 御存知のように、多くの政教訴訟に浄土真宗の僧侶が名をつらねている。その理由について、私は最近まで、「神祇不拝」という浄土真宗の教義を拡大解釈して、一部の僧侶が個人的に行っていることだと思っていた。ところが、調べてみると、本山の指令に基づく組織的な運動であるらしいことが分かってきた。浄土真宗西本願寺派(以下「西本願寺」)の資料に基づいて、その一部をご紹介したい。

 「西本願寺」の山陰教区基幹運動推進委員会が作成した『真宗門徒と自治会』という冊子がある。その冒頭には、次のように書かれている。
「神社中心の宗教社会のしくみは、村落支配の形は変わっても、本質的には古代から現代に至るまで一貫していると言わねばなりません。そこでは個人の自由や、人格が平等であるということを成立させることがとても難しい状況にあります。村々の神々の強い力のもとに縛り上げられていた人たちに、そこからの解放をうながし、一人ひとり平等な人格として、通じあい、尊敬し合うような精神を生み出していく、これこそが『信』によってひらかれた同朋世界でありましょう。『神祇不拝』を貫かれた、宗祖親鸞聖人のおこころに立とうという願いを持ち続け、現実のさまざまな問題に立ち向かっていくというのが、宗門の基幹運動の根本精神です。」

 ここを読むと、「西本願寺」は、神社を日本人の自由と平等をさまたげる原因とみなして、宗派をあげて「基幹運動」という名の反神道運動を展開しているらしいのである。それでは、「基幹運動」とは何なのか。驚いたことに、それは一面において、「西本願寺」内部の粛正運動でもあるようなのである。

2.「西本願寺」内部の神道派に対する闘争

 佐賀県鳥栖市において発生した神社祭典費と自治会費をめぐる訴訟については御存知の方も多いだろうが、簡単に言えば、大分県から転居してきた「西本願寺」の僧侶が、自治会が集めている自治会費に町内の天満神社の氏子費などが含まれていることを知り、政教分離の原則に反し、信教の自由を侵されているとして、訴訟に及んだものである。この問題を報じている『寺門興隆』(平成十二年七月号)という雑誌を見ると、この僧侶は区長に対して「信教の自由を認めない自治会からの区費徴収は、異教徒の私にとって毎月、踏み絵を試されているような精神的苦痛を強いられます」(一四頁)という手紙を書いていたとある。これを読んだ人は、おそらくみんな、これは神社氏子の横暴に対する真宗僧侶の異議申し立てであると思うことだろう。

 ところが、先の山陰教区の冊子には、意外にも次のように書かれているのだ。
「この地域の住民はほとんど真宗門徒です。もちろん当時の自治会長も真宗門徒でした。神社費、神道拒否をめぐって一人の真宗門徒が大多数の真宗門徒と『信教の自由』をめぐって対峙しているのです」(一二頁)。
「それは異質な二つの真宗信仰があるということです。一つは、神道をまるごと肯定、受容する真宗信仰。いま一つは、神道を否定し、その中から決別、離脱してゆく真宗信仰です。しかも、前者は圧倒的多数であり、後者はごく少数です。このように真宗が神道化しているきびしい状況のなかで、云々」(一五頁)。
「たしかに、私たちの教団全体を見渡しても前記の大多数の人々が共有している信仰が支配的なのは事実でしょう。しかし、そうかといって、少数の人々の真宗信仰が異端であり、間違いであるとは決して言えません。」(一九頁)

 つまり、鳥栖市の問題は、世間からは真宗信仰と神社信仰との対立のように見られているが、実は神社信仰を認める多数の真宗門徒と、それを認めない少数の真宗門徒の争いというのが実相であるらしい。そして、「基幹運動」というのは原理主義的な少数派の、多数派に対する反神道的粛正闘争という一面を持っているようなのである。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-10-02 19:12 | 雑誌
『史』平成16年1月号

○絶対神的な天皇像の由来

 近代日本の国家と宗教との関係については、いまだに「現人神」「国家神道」という誇大妄想が幅を利かせている。“明治以降、絶対神的な天皇像(「現人神」)が国民に教え込まれ、それによって国内的な搾取と対外的な侵略とが正当化された。その狂信的な天皇崇拝を根拠づけたのが神道で、神社は国教とされ、国民には神社の崇敬や参拝が強制された(「国家神道」)”というのだ。

 地域的にも、身分的にも、つまり思想的にバラバラだった人民をまとめあげて、ひ弱な日本を強い近代国家に変えていこうとしている時に、そんな乱暴な事ができるわけがない。できたとしても、長続きするはずがない。そういう常識的な見方に立って、私は『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP研究所)を書いた。ところが、対立する学者の目を意識しすぎたためか、「むずかしくて、よく分からない」という声を時々耳にする。そこで、史料に基づいた証明過程を省いて、「要するに、どういうことだったのか」という大まかな筋道だけを紹介してみたい。

まず「現人神」についてだが、天皇を絶対神的な、唯一絶対の存在だと見る思想が、明治維新以来ずっと国民に教え続けられた、という事実はない。そんな思想が登場するのは明治四十五年以降のことで、教科書に載るにいたっては昭和十六年のことにすぎない。

 そもそも、多神教的な神道の立場から絶対神的な天皇像が出てくるわけがない。絶対神的な天皇像というのは、加藤玄智という宗教学者が、外国人にも分かるように、キリスト教的に模して日本人の尊皇心を説明しようとしたことに由来する。それが昭和に入ってから社会に広がっていったのは、共産主義という強烈な国家否定、天皇否定のイデオロギーに対抗しなければならなくなったからだった。

 また、神武天皇の建国伝承の中に「日本による世界の統一」という理想を見出したのは、田中智学という日蓮主義者で、彼の造語である「八紘一宇」が世間に広まり、政府がそれを使うようになったのは、これまた昭和に入ってからのことで、ブロック経済圏の設定が世界の潮流となったためだった。

つまり「現人神」も「八紘一宇」も、伝統的な神道思想に由来するものではないのである。したがって、近代を通じて神社だけが特に優遇されたとか、その崇敬や参拝が法的に強制されたという事実もない。昭和六年の満州事変以降、信教の自由を理由にして集団参拝を拒否することが、事実上できなくなったのはたしかだが、それは非常時の意識が高まり、加藤や田中の影響を強く受けた軍の発言力が増したからだった。要するに、狂信的な天皇崇拝を植え付けるための装置としての「国家神道」など、存在しなかったわけである。

○キリスト教徒の教育勅語観・憲法観

それでは、一部の人々の間で、「国家神道」の経典のように言われている「教育勅語」とは、どういうものだったのか。それは、明治二十二年の明治憲法の発布によって参政権を与えられた国民に必要だと考えられた徳目を列挙したもので、決して、天皇を「現人神」として信仰させようとの趣旨から出されたものではなかった。起草に当たった井上毅は、「教育勅語」が国民の思想に介入するものだと思われたり、特定の宗教を押しつけようとするものだと誤解されて、不信や不満を呼び起こすことのないように、細心の注意を払った。だからこそ、発布された勅語に対して不満をもらした宗教家はなく、国民からも等しく歓迎されたのである。

 それでは、何故、今日、「教育勅語」に対して、あたかも思想統制や信仰強制の文書だったかのように言う者がいるのだろうか。ここから先は、本では書かなかったことだが、おおよそ二つの理由が考えられる。

 一つは、歴史を見る時に、その時、その場の事実や、過去の人々の感じ方・考え方よりも、現在の自分の思想やイデオロギーの方を真実だと錯覚している人々がいるということである。例えば、“キリスト教信仰と天皇崇敬とは原理的に矛盾する。だから、天皇中心の憲法や教育勅語はキリスト教を圧迫するもので、キリスト教徒は抑圧を感じていたハズだし、感じていなかったとすればそれはおかしい”という具合である。

 しかし、ちょっと考えてみれば、これは奇妙な考えで、例えば、今の私にとった大切なのは、今の私の感覚で、百年後の誰かさんの判断ではない。百年後の人が、「実は君は抑圧されていたんだよ」と言ったとしても、今の私がそう感じていなければ、私は抑圧されていない。それが、まっとうな歴史感覚というものだろう。

 そういう観点からすれば、まず確認し、重視しなければならないのは、明治憲法や教育勅語の発布を、当時のキリスト教徒がどう受け取り、どう反応したか、ということだろう。実は、彼らは、帝国憲法によって信教の自由を与えられたことを喜び、明治天皇に深い感謝の念を懐くとともに、キリスト教と教育勅語の一致を心の底から確信していた。さらに、日清・日露の戦争においても進んで協力した。この点については、日本のキリスト教史に詳しい土肥昭夫・同志社大学名誉教授の言葉を、次に引用しておこう(『近代天皇制の形成とキリスト教』新教出版社)。

 キリスト教徒は憲法発布にあたって各地で祝賀会を催した。「この祝賀会出席者に共通な心情は、明治維新当初禁制であったキリスト教が約二○年でその信教の自由を得たという喜びと感動であった」(二四六頁)
「その立場は違っていても、彼らはひとしく〔教育〕勅語を発した天皇に限りない畏敬の念をおぼえ、その勅語を金科玉条のようにうけとっていた」(二八五頁)
「そういう彼らにとって、キリスト教は天皇制国体に合致しないとか、臣民道徳に衝突するなどいわれても、解しかねることであったに違いない。その非難攻撃を断ち切るためには、単なる理論上の反駁のみならず、実践的活動によってその不当性を明らかにし、天皇制国家におけるキリスト教の有効性を示すことを考えた。日清戦争はこの事のための絶好の機会となったのである」(三二九頁)
「彼らは情況に促されて止むを得ず行ったというよりも、天皇制下における自己の位置と使命をわきまえ、自発的にこのような言動をした。それは彼らの中に自生的に潜在していた天皇・天皇制意識の発露と考えられるのである」(三三二頁)

 事実よりも観念の方を重んじてしまう知識人はかつてもいた。しかもその一人が、教育勅語の半ば公的な解説書を書いた東大教授の井上哲次郎だったことが、教育勅語に対する誤解を、後世までも残す結果になってしまった。井上は、キリスト教は、日本の国体と原理的に相容れないとして、教育勅語を引き合いに出してキリスト教を攻撃し、それが「教育と宗教の衝突」と呼ばれる論争にまで発展してしまった。明治二十年代半ばのことである。

 この井上哲次郎の態度は、明治憲法・教育勅語の起草者である井上毅の意図や配慮をまったく無視したものだった。それと同時に、彼は当時のキリスト教生の実態にも無知だった。再び土肥昭夫氏の言葉を引用しよう。

「多くのキリスト教指導者は、井上たちのキリスト教攻撃を誤解とし、多少の相違はあるにせよ、キリスト教が勅語の唱える臣民道徳に合致した宗教であることを弁明し、それを実践していった。(中略)もし井上らが先入観や偏見を持たないでキリスト教系の雑誌や新聞の論説を読み、教会やキリスト教系学校の活動を正確かつ公平に調査したら、果たして自らのキリスト教観を持ち続けることができたであろうか、とさえ思われるのである」(三三一頁)

 ところが、不思議なことに、現代の歴史家やキリスト者の中には、当時のキリスト者の言動よりも、むしろ井上哲次郎の観念論の方に共感を覚え、彼らの弁明を批判的に記述する者が多い。自分の価値観に照らして歴史を否定的に評価することは構わないとしても、当時にあっては、天皇とキリストの教えとは、どちらも不可欠で、しかも両立可能なものだと考えられていた、という事実だけは読者に伝えるべきである。何故なら、そのような当時の常識を前提として、憲法も教育勅語も起草されていたからである。そこを覆い隠して、憲法や教育勅語を批判することは、歴史に対する恣意的専制以外のなにものでもない、と言わなければならない。
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by nitta_hitoshi | 2007-07-03 11:05 | 雑誌
『祖国と青年』(平成16年1月号)

 松浦光修著『いいかげんにしろ日教組』(PHP研究所/本体千八百円)が、三重県で密かなブームになりつつある。津市、上野市、伊勢市の各書店でベストテン入りし、津市では二位、上野市では十位。伊勢市では、学校を得意先としている書店だったために、先生方の怒りに配慮して、ベストテン入りしている事実を隠したそうだが、三重県教職員組合(三教組)所属の先生方の中にも読者を獲得しつつあり、「表紙が透けない袋に入れて、届けてくれ」と、こっそり注文する教師が出始めている。「密かな」と書いたのは、そういう意味で、表だって読んではいけない本として、売れているらしい。

 こうした現象を捉えてのことだろう。十一月十二日の「産経新聞」三重版が、紙面の約四分の一を割いて、写真入りで、この本が「評判を呼んでいる」と、「日教組批判評判呼ぶ」と題して報じた。このタイトルを眺めながら、私はある光景を感慨深く思い出した。

 平成十一年八月二日、私と松浦氏は、津市にある産経支局をはじめて訪ねた。この時の私たちは、新しい歴史教科書を三重県で広める運動を起こすことを決意していたものの、その最大の障害になるであろう三教組に対しては、自ら批判の最前線に立とうとまで考えていなかった。

 それには、しかるべき人がいるだろう、しかるべき組織があるだろう。それは誰だろうか? 当時、広島では産経新聞が果敢に日教組批判を展開していた。ならば、三重でも産経にやってもらおう。そう考えて、産経支局に、「三教組批判のお願い」にあがったわけである。私たちの虫のいい“お願い”を聞き終わると、当時の支局長はこう答えた。「内にも色々な読者がいますからね。三教組の先生方も含めて・・・」。要するに、教師を敵にするような記事は書けない、と断られたわけだ。

 当然、私の心は怒りで満たされたわけだが、今から思い返してみれば、それは、自ら戦い、危険を背負う覚悟のない者が、他人が代わって戦ってくれないことを怒っていたにすぎなかった。その後も何回か似たような挫折を味わい、ついに私たちは自ら立たざるを得なくなった。その後の経過は、ほぼ本書に述べられている通りである(むろん、まだ公にできない事実や、そのままには書けない経緯も多いが・・・)。そして、今や、「三教組批判」という文字が「三重版」に踊る時勢がやってきた。

 何事も自らの決意と創意工夫からしか始まらない。歴史は、そう自覚した人々によって紡がれてきたのだ。そう悟らせてくれるために、これまでの挫折と成功、失望と喜びがあったのだとしたら、神様とは随分と厳しく、手の込んだ仕掛けを用意してくれる、愛深い存在なのだ、と思う。そして、幾多の試みの中で、何とか私たちが自らの言葉を裏切らずに来れたこと、その深いみ守りに感謝せざるを得ない。本書を精読されるならば、その思いをきっと読者も共有してくださるに違いない。
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by nitta_hitoshi | 2007-06-11 08:34 | 雑誌

○「先祖とのかかわり」という軸を

 このような分析を踏まえて、今後の宗教教育の現実的な方向性を考えてみると、第二十回基本問題部会での阿部美哉・國學院大学長の意見陳述が参考になるように思う。阿部氏は、「宗教情操教育」は家庭や宗教団体に任せて、学校教育(特に公立学校)では、「宗教知識教育」を充実させることを提案している。ここで、注意しなければならないのは、阿部氏が、社会学者のデュルケムの説を引いて、「宗教は個人レベルに押し込まれるものではなく、公的な次元を含み、公的な存在を合理化するものである」としていることだ。このような立場から、「世界の諸宗教の神話、儀礼、教えの骨格」についての「知識」が教えられることになると、従来の宗教を国家をはじめとする公共団体から単純に分離しようとする考えは大きく修正されていくことになるだろう。

 たとえば、アメリカについて言えば、これまでのように合衆国憲法の修正第一條で政教分離が規定されているというような表面的な解説にとどまることはできず、大統領が就任式で聖書に手をおいて宣誓していること、連邦議会が定めた“In God we trust”(我々は神を信じます)の国家標語が国歌の中にも政府発行の貨幣の中にも明示されていること、あるいは議会や法廷での祈祷儀式や国旗に対する忠誠の誓詞の中に“全能の神”が登場すること等が、宗教についての「知識」として教えられることになるだろう。

 そうなれば、宗教と国家・社会との密接な関係、宗教の公共性などが視野に収められることになり、それは即座に“日本における宗教の公共性とは何か”という問いに繋がっていく。

 阿部氏は「宗教情操教育は家庭や宗教団体に任せて」と言いつつ、「道徳教育で取り扱う畏敬の念の教育は宗教の根幹であり、世界の宗教の基幹でもある。この畏敬の念について各宗教がいかなる表現形態をとっているかについて教育することは極めて大切である」とも述べている。私の理解が阿部氏の真意を正確に捉えているかどうかは分からないが、これを私は、対立が厳しくて意見集約が難しいであろう宗教教育の分野を避けて、すでに合意が成立している道徳教育の分野において、実質的な「宗教情操教育」を行ってはどうか、という提案であると受けとめた。

 ただし、その場合には、今の道徳教育の方針に新たな軸を一つ付け加える必要があるように思う。文部省編の『中学校学習指導要領(平成十年十二月)解説ー道徳編ー』を読むと、「道徳の内容」が「指導の観点」から四つに分類・整理されている。そこでは「1 主として自分自身に関すること」以外は、「2 主として他の人とのかかわりに関すること」「3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」「4 主として集団や社会とのかかわりに関すること」と、何れも「かかわり」(関係性)をキーワードとなっている。そして、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」は「3」の中で「自然とのかかわりを深く認識すれば、人間は様々な意味で有限なものであり、自然の中で生かされていることを自覚することができる。この自覚とともに、人間の力を超えたものを素直に感じとる心が深まり、これに対する畏敬の念が芽生えてくるであろう」と解説されている。

 このように、道徳を「かかわり」(関係性)の中で捉えようとする視点はすばらしく、現実に教育されれば、自主性や自己実現の強調がもたらす自由の濫用を抑制してくれることだろう。ただし、伝統的な日本人の「畏敬の念」の継承という観点からすると、軸が一本欠けている。それは、先祖との「かかわり」という時間軸である。これを補うならば、道徳教育が実質的な「宗教情操教育」となり得るに違いない。(了)
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by nitta_hitoshi | 2007-04-25 08:37 | 雑誌
『祖国と青年』平成15年5月

  ー宗教を国家・社会から単純に分離しようとする考えは修正されるべきー

 三月二十日に公表された中央教育審議会「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について(答申)」の中の「宗教に関する教育」の部分について何か書いてほしいとの依頼が編集部からあった。「よく知らないので期日までには書けない」とお断りしたところ、「資料をそろえるから」と再度依頼があった。本稿は、その資料を大急ぎで読んで纏めたレポートである。そういうわけで、不備の点は、この経緯に免じてお許し願いたい。

○教基法起草過程で削られた「宗教的情操」が復活

 さて、現行の教育基本法は、宗教教育について、次のように規定している。
 第九条 ①宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。②国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

 この意味を解説すると、第一項の重点は「宗教に関する寛容」(宗教を信じる又は信じないことを認め、侮蔑、排斥をしないこと)にあり、「宗教の社会生活における地位」の方は、それを特に重んじるという意味ではなくて、単に社会におけるありようを正確に理解する、というすぎない。草案の段階では、「宗教的情操の涵養」が説かれていたようだが、宗教の特別視につながるという理由で削除されたらしい(昭和二十二年三月十四日の衆議院・教育基本法案委員会での高橋国務大臣の答弁)。

 次に、第二項で禁止されている「宗教教育」だが、それは「特定の宗教を宣伝する教育」「宗教一般を宣伝する目的で行われる教育」「宗教を排斥することを目的として行われる教育」を指している。

 このような現行法に対して、「答申」はおよそ次の三つの問題を提起した。
一、「宗教の社会生活における地位」に「重要な意義」を認め、「人類が受け継いできた重要な文化である」と位置づけた。それは、各委員の間で、「実際、文化というものは宗教が基本にあってつくられているものがたくさんある」「文化を伝えるのが教育の目標なら、文化の中に宗教というものはすごく重みがある」という認識が共有され、これを宗教教育の項目に入れておかないと、「戦後、宗教教育についていろいろと問題があると言われていた答えが出てこない」という結論に達したかららしい(第二十六回基本問題部会議事録)。

二、一に関連して、「国際関係が緊密化・複雑化する中にあって、他の国や地域の文化を学ぶ上で、その背景にある宗教に関する知識を理解することが必要となっている」として、国際理解の観点から「宗教に関する知識」の重要性を指摘している。これは、「国際社会の中で宗教が、民族的なアイデンティティとか、そういうものと一緒になって出てきますから、それを理解しなければいけない。それなくして異文化理解はあり得ない」との認識からのようだ(第二十六回議事録)。

三、教育基本法の起草過程で削られた「宗教的情操」という言葉を復活させ、それを「はぐくむことは、大変重要である」と位置づけた。これは、一日中央教育審議会や教育関係団体のヒアリングで要望が多かった上に、中間報告を議論する過程でも出てきた要求だったから、というのが理由のようだ(第二十六回議事録)。ただし、この「宗教的情操」を、現在の小・中学校の「道徳」の「学習指導要領」の中で規定されている「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」と直接に結びつけることは避けられ、情操の内容については、今後の専門的な検討に委ねられた。それは、「道徳概念の中でむしろ書かれるほうがいい」(第二十六回議事録)とか、「自分は『人間の力を超えたものに対する畏敬の念』が宗教的情操であるとは考えていない。こういうことを言うから、若者がカルトやオカルトに導かれるのであり、むしろ大事なのは『一人一人の決断の中に働く大きな力』である」(第二十八回中央教育審議会総会議事録)などの意見があったからのようだ。

 なお、中間報告に載せられていた「カルトやマインドコントロールから自分を守るために適切な判断ができるようにする教育」については、「宗教に関する正しい知識とは何か、誰がそれを判定するのかということになると非常に難しい」などの理由によって言及が避けられた(第二十六回議事録)。

 以上、この「答申」のポイントを一言でまとめれば、「宗教知識教育」の必要性についてはかなり踏み込んだものの、「宗教情操教育」については言葉の挿入だけで、中身に関する合意が得られるかどうかは今のところわからない、ということになろう。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-04-16 11:46 | 雑誌
 次に、もう一つ梅原氏の近代日本の道徳に対する批判を紹介したい。彼は小泉首相の靖国神社参拝に反対する理由として、「靖国神社のあり方が本来の神道からの逸脱であることはいうまでもない。日本の神道というのは、これは“祟り”という考え方にもつながるのだが、自分たちが滅ぼした者を祀るというのが本来のあり方であった」(『潮』平成十四年九月号)と言い、「戦争で犠牲になった敵の人を祀る神社をつくらず、自国のために死んだ人間を祀るなど、日本の神道の精神に背くというのが私の考えです」(『世界』平成十三年八月号)と述べている。

 一見もっともらしい批判のように聞こえるが、実は、この議論は三つの基本的な無知の上に組み立てられている。

 一つは、歴史に照らせば、「自分たちが滅ぼした者を祀る」ということが“神道の本来の在り方”などとはとても言えないということである。もし梅原氏のいう通りであるとすれば、大和朝廷の形成・発展の段階でそれに抵抗した勢力を祀る神社ないし祭祀が、古代国家の祭祀体系の中で重要な位置を占めていなければならないはずだ。ところが、朝廷から重んじられた二,八六一社、三,一三二座の神々や、恒例の祭祀である四時祭の中に、そのような本質を見出すことはできない。

 二つ目に、梅原氏は近代日本の慰霊の実態を知らず、また、近代初期の廃仏毀釈によって仏教が滅んでしまったと錯覚しているために、靖国神社だけで慰霊が完結していると思い込んでいるらしい。そこから、“敵を祀らなかった”などという妄言(猛言?)が生まれてくることになる。

 靖国神社や護国神社は確かに英霊が最後に鎮まる公的な場ではあったが、そこでの祭祀が鎮魂慰霊の唯一の儀礼だったわけではない。戦地においては各部隊に従軍した僧侶などによって慰霊行事が盛んに行われていたし、内地における公葬なども仏式が多かった。そうしたものに神職が基本的に関われなかったのは、戦前には神職は葬儀や説教に関わってはならないとの法規が存在し、そのために、昭和十二年まで従軍を許されなかったからである。

 日本軍は戦地において確かに敵を祀る「神社」はつくらなかった。 しかし、敵を葬る墓や慰霊施設は盛んに建設し、敵味方を共に祀る合同慰霊祭も盛んに行っていたのである。例えば、日露戦争後、日本はロシア軍将兵の墓地を整備し、礼拝堂を建立したが、日本軍将兵のための「表忠塔」を立てたのは、それよりも二年も後だった。支那事変においても各部隊は各地で「中国無名戦死之墓」を建立している。特に、南京陥落の後には、南京郊外に「南京戦歿支那陣亡将士公墓」を日中両国僧侶と自治委員会が共同で建立し、第三師団長の藤田進中将が大谷光暢法主を導師として慰霊祭を執行している。このようなことは、大東亜戦争においても同様だが、シンガポール陥落後に山下奉文将軍が行った合同慰霊祭などが有名である(詳しくは、名越二荒之助編『世界に開かれた昭和の戦争記念館』全五巻、展転社を参照)

 三つ目の無知は、現在の靖国神社には、昭和四十年に建立された「鎮霊社」という「全世界の戦死者や戦禍犠牲者」の霊を祀る社があることを梅原氏が知らないことである。それだけではない。軍馬や軍犬の慰霊像や、伝書鳩の慰霊塔まである。梅原氏は、多神教を大変高く評価している方なので、このような事実を知れば、きっと首相の靖国神社参拝に賛成し、新たな国立慰霊施設など必要ない、と主張されるに違いない。

 さて、今後再び、教育基本法の改正や国立慰霊施設の建設をめぐる論議が活発になりそうな雲行きである。その議論の是非を判断する上で、先ずは過去についての正確な事実を探求することが大切なのだということを御理解いただけたとしたら、本小論の趣旨は達成されたといえるだろう。誤った作戦行動に出ないためには、先入観を排して、正確な情報を収集することが大切であるということなど自衛隊の幹部の方々には釈迦に説法というものだろうが、日常生活の中では意外にこの大原則が無視されがちなのである。(了)
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by nitta_hitoshi | 2007-04-08 08:23 | 雑誌
 梅原氏は「教育勅語の精神は結局、天皇を唯一の神として、その神のために死ぬことを根本道徳とし、一切の道徳をこの根本道徳に従属させる精神であった」(『朝日新聞』平成十四年十一月十七日)と言う。しかし、実は、天皇を唯一の神とするなどということは勅語のどこにも書かれていない。歴代天皇と国民の祖先が協力して我国を建設し、維持してきた歴史に誇りを持ち、互いの先祖を敬う心を基礎として、これからも国家の発展のために協力していこう。この明治天皇からの国民への呼びかけが勅語の趣旨である。

 しかも、勅語起草の中心者であった井上毅は、勅語が宗教や哲学的な争いの種にならないように「敬天」「尊神」などの語を避けるように特に注意を払うとともに、君主は国民の思想の自由に干渉できないという近代国家の原則を貫くために、法的拘束力のない天皇の著作として公表するという形式を提案し、採用された。

 そのため、勅語発布後には民間で多くの解説書が刊行されたが、その内容は実に多彩で、神道や儒教の立場からばかりでなく、仏教やキリスト教の立場から「教育勅語」を解説したものまであった。勅語が「天皇を唯一の神」とするものであったとしたら、こんなことは考えられない。

 また、「その神〔天皇〕のために死ぬことを根本道徳とし、一切の道徳をこの根本道徳に従属させる精神であった」というのも根拠がない。「天皇のために死ね」とは勅語のどこを見ても書かれていない。

 勅語には「父母に孝に」からはじまって「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」まで計十五の徳目が列挙されているが、それらすべてを身につけて国家の発展のために尽くすことが期待されているのであって、すべての徳目が「義勇公に奉じ」に従属させられているわけではない。

 それに「義勇公に奉じ」にしても、「非常事態に際しては公のために尽くせ」という意味であって、これを「天皇のために死ね」と解釈するのは極論に近い。それは、自衛隊法第三条第一項を、「要するに、国民のために死ね」という意味だと説明するようなものである。

 どうやら、梅原氏は満州事変(昭和六年)以降の時代状況の中での自らの教育体験から、それがそのまま「教育勅語」の趣旨であり、明治以来の教育であったと思い込んでしまっているようだ。

 勅語の最後の部分に注目していただきたい。そこで明治天皇は、この勅語は「子孫臣民の倶に遵守すべき処」「朕爾臣民と共に拳拳服膺して」と、皇族と天皇御自身が率先して勅語を守ると明言されている。勅語の趣旨が梅原氏のいうようなものであったとすれば、天皇自身が率先垂範するということは、要するに「先ず天皇自身が天皇のために死んでみせる」ということになり、それではまるで「明治天皇の遺書」である。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-04-02 09:25 | 雑誌
『修親』(平成15年4月号)

「『修親』という雑誌を編集している者ですが、私共の雑誌にご執筆いただけないでしょうか」と、電話がかかってきたのは昨年[平成14年]十二月のことだった。

「今どき『修身』などという名を冠した雑誌があるのか? ちょっと、あやしいな?」と、とっさに私は考えてしまった。しかし、よく聞いてみると、自衛隊幹部の修養と親睦のための雑誌だということだったので安心し、執筆をお引き受けして、さて、何を書こうと考えていると、自分が「修親」を「修身」と誤解し、それを「ちょっと、あやしい」と感じてしまった理由が気になり出した。

 私が勤務している皇學館大学は世間的には保守の牙城のように思われていて、そういう目からみると、神道学科に席を置く私などはさしずめ生粋の国家主義者ということになるらしい。しかし、そう見られる私自身の中にさえ、戦前の「修身」教育を「あやしい」と条件反射的に感じてしまう感覚が内蔵されているのである。

 これは決して小さな問題ではないだろう。何故なら、この感覚こそ、その基礎となった「教育勅語」や、さらに発展して、「道徳教育」そのものを否定する言論や行為につながっていると思えるからだ。さらにそれは単に過去の出来事についての解釈につきるものではなくて、今日の「教育基本法改正」「首相の靖国神社参拝」「国立慰霊施設の建設」といった問題にも大きく関係している。

 となれば、我々戦後教育世代の心の中に無意識の内に組み込まれてしまっている戦前の道徳教育に対する先入観を、事実に照らして検証してみることが必要だろう。気がついてみると、私が近ごろ上梓した『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP研究所)は、その検証作業でもあったように思える。

 そこで、拙著の内容をご紹介したいところだが、とてもこの限られた紙数の中では無理なので、詳しくは直接読んでいただくことにして、ここでは拙著の執筆過程で明らかになった事実に照らして、明らかに誤りであると断定できる最近の議論を取り上げてみたい。それは、かの有名な梅原猛氏が「教育勅語」「靖国神社」そして「旧日本軍」について語っていることである。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-03-31 07:39 | 雑誌