新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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カテゴリ:新聞( 14 )

(「神社新報」平成15年2月3日)


 「過去の歴史に学ぶ」などということを実は本気で考えたことの無い人々が書いた文書。自分たちの思い込みを真理だと勘違いしている人々がまとめた作文。それが「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(追悼・平和懇)が昨年十二月に公表した報告書である。

○明白な事実をごまかすいかがわしさ

 この作文はまず、歴史をではなく、現在の明白な事実をごまかすところから筆を起こしている。

「なぜ、今、国立の追悼・平和祈念施設を必要とする時期が来たと考えるのであろうか」との問い、それは“日本をめぐる内外の環境が大きな変革期”にある中で“日本が平和を積極的に求め行動する主体であることを世界に示す好機”だからであり、若い世代に“「平和国家」日本の担い手としての自覚を促す節目”であるからだと答えている。嘘である。

 一昨年八月の小泉首相の靖国神社参拝に対して、中国・韓国から激しい批判が沸き上がり、これに対処するために、内閣官房長官の諮問会議として「追悼・平和懇」が設置されたことは誰でも知っている事実である。「なぜ、今」なのかとの問いに答えるとすれば、この明白な事実を無視することはできない。にもかかわらず、それをごまかすところから筆を起こしているところに、そもそもこの報告書のいかがわしさが滲み出ている。

○祈念は宗教行為ではないと断定する非常識

 この報告書は、国を挙げて「追悼・平和祈念」を行うための「国立の無宗教の恒久的施設」が必要である、と主張している。「追悼・祈念」を行う施設が「無宗教」、すなわち「宗教ではない」というのは奇妙な感覚だが、それは二つの理屈によって正当化されている。

 一つは、「この施設における追悼は、それ自体非常に重いものであるが、平和祈念と不可分一体のものであり、それのみが独立した目的ではない」というものである。つまり、「追悼」は宗教行為だが、「祈念」は宗教行為ではなく、その両者を併せると非宗教行為になるというのである。宗教と非宗教を足すと非宗教になるというのは驚くべき主張だが、それよりも「祈念」を非宗教行為と断定する根拠は何なのだろうか。

 本紙の平成十四年五月二十七日号に「国家が捧げる祈り」と題して、米ワシントン・ナショナル・カテドラルについての記事が掲載されていた。この記事の中で、カテドラル側は「『追悼』は必ずしも宗教や祈り、あるいは精神性に基づく必要はありませんが、『祈り』は宗教的行為以外の何ものでもありません」と主張していた。「追悼・平和懇」の報告書とは正反対の見解である。

 このような見解のあることを無視して、「何人もわだかまりなく」追悼・祈念できる施設を創ろうというのだからお笑いである。

○歴史に学ぶ姿勢の欠如

 ところで、戦前の日本人の国民道徳の支柱をなした「教育勅語」は、特定の哲学や宗教に偏らないことを旨として起草され、当時の多くの国民から支持された。それにもかかわらず、今日では、この勅語を特定の思想や宗教に偏ったものであったと主張する論者が跡を絶たない。ある時代に圧倒的に国民に支持されていた教育勅語についてさえ、時が経てば異論百出の有様である。

 まして、現在ただ今の時点でさえ国内に多くの異論が存在し、必ずしも外国の感覚とも合致していない施設を「非宗教」だと強弁して政府に建設させようなどというのは、全く歴史に学んでいないとしかいいようがない。

○姑息な言い逃れによる論理矛盾

 報告書が「追悼・祈念施設」を宗教施設ではないとするもう一つの理由は「死没者一般がその対象になり得るというにとどまり、それ以上に具体的な個々の人間が追悼の対象に含まれているか否かを問う性格のものではない」というものである。

 追悼・祈念の対象が“具体的でない”、つまり“曖昧だから”宗教施設ではないというのもへんてこな理屈だ。

 しかしもっと問題なのは、この文章の直前で「日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をした者の中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない」と書かれていることである。

 特定の理由によって追悼対象とならない人々の存在を認めるならば、誰がそれに当たるのか、当たらないのか、それこそ具体的に個々の人間を特定しなければならない。「対象に含まれているか否かを問う性格のものではない」などとは言えたものではない。

 要するに、このように単純な論理矛盾に気付かないほどに、この報告書は、追悼対象者に対する誠意に欠けているということなのだろう。
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by nitta_hitoshi | 2007-03-28 11:49 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年10月3日]

 前回の捕捉をすると、今日のアメリカでは性教育の見直しも進んでいる。連邦政府は一九九六年に「結婚まで性交渉を自己抑制する」教育プログラムの推進に助成金として年間五千万ドルを支給することを発表し、ブッシュ大統領は今年二月にこの助成金を一億三千五百万ドルに引き上げることを提案した。また、多くの州議会においても、公立学校の性教育においては自己抑制を基本とすることを明記した法律が可決されている。

 このような見直しが進んでいる背景には、フェミニズムなどの過激思想によって大きく歪められてしまったアメリカ社会の現実がある。それがどのようなものであるのか、評論家の松居和氏が自民党の少子化問題小委員会で行った講演を要約してみよう。

 アメリカでは三人に一人の子どもが未婚の母から生まれる。家庭崩壊の結果、頼れる親戚がいないため、女性が女手一つで子育てをする。アメリカでは子どもの二十人に一人が一生に一回刑務所に入る。犯罪者の七割が母子家庭から出ている。子どもが18歳になるまでに40%の親が離婚するので、実の父親が家庭にいるなどという贅沢なことはもう誰もいわない。

 五年前に、二十一歳以下の未婚の女性が子どもを産んだら、生活保護費を支払う代わりに、政府が孤児院をつくって育てるという法案が連邦議会に提案された。孤児院に子ども一人を収容するのに年間400万円かかるが、囚人一人には1600万円かかるので、それよりはましだというのが理由だった。しかし、対象者全員を収容すると200万人の子どもを収容しなければならないことが分かって断念されたのだという。

 また、アメリカでは100万人の子どもが路上でホームレスとして暮らしており、そのほとんどが親に虐待されて家を出た子供たちだという。三年前の時点で親による虐待で重傷を負った子どもが、病院から報告されただけで五七万人。そして、なんと、五人に一人の少女が近親相姦で犯されるのだという。

 その原因について、松居氏は三分の一の男性が最初から子育てに関わらないという状況の中で、「親心」が育たず、ために、社会のモラルや秩序が崩れたのだと指摘し、「こんなのはもう人間社会じゃない。そういう国を我々は先進国と呼んでいるのです」とまで言っている。先進国の中で、奇跡的によい状態にある日本がどうして外国をまねようとするのか理解に苦しむらしい。

 松居氏は、“これ以上親を子供から引き離したら「親が親じゃなくなっちゃう」というのが心ある保育者多数の考えだ”と、保育所を増してもっと子どもを預けやすくしようとする日本政府の政策を批判する。このような講演を受けて、自民党少子化問題小委員会は対策試案をまとめ、その中で「性差を否定するような行き過ぎたジェンダーフリーなどの考えが少子化対策に与える悪影響を排除す」と明言した。(おわり)
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by nitta_hitoshi | 2007-03-15 09:05 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年10月2日]

 前回、昭和初期のソ連の様子について書いたが、近年では、西洋先進国においてもフェミニズム運動によって歪んでしまった社会の在り様を元にもどそうとする傾向が顕著になってきているようだ。その一例が女性の家庭への回帰である。

 イギリスでは静かな専業主婦ブームが起きているという。それは、長年にわたる女性の社会進出の結果、母親の仕事のために置き去り状態にされた娘達の中から、外で働く母親が女性として果たして本当に幸福なのかとの疑問を持つ人々が現れてきたかららしい。専業主婦ブームの火付け役となった団体に、「フルタイム・マザーズ(FTM)」という専業主婦の団体があり、その設立のきっかけは、「家庭にいる女性が劣等感を抱かなければならない社会風潮に我慢がならなかった」「専業主婦が自信を持てない社会は不幸である」「料金を支払って子育てを依頼し、自分は外に働きに出るのがよいとする世間のプレッシャーが母親に容赦なくかかることに疑問を感じる」等ということであったらしい(多賀幹子「キャリアウーマンが家庭に帰り始めた」『婦人公論』一九九九年七月号)。

 こうした女性の家庭回帰現象の中で、出産率も伸び始めたのだそうだ。だから、少子化問題についてフェミニストが主張している“女性の社会進出が進んでいる国ほど出生率が高い”というのは詭弁に過ぎない。そもそも、先進国で出産率が伸びているとはいっても、未だに一定の人口を維持するのに必要な数値にまでは回復しておらず、少子化問題を根本的には解決できていないというの現状のようだ(岡本明子「内閣府男女共同参画会議の恐るべき戦略」『正論』平成十四年十月号)

 また、アメリカでは、フェミニスト運動の中で否定されていった男女別学が再評価され、男女別学に戻した結果、生徒の学力を大幅に上昇させることに成功する学校があらわれてきた。それは、「思春期にさしかかった子供達を別学にすることで、男の子も女の子も他方の性を意識するエネルギーを、勉強といより建設的な方向にそそぐことができる」からであり、また「脳の研究で、男性は理数系、女性は言語に優れていることは周知の事実であり、男女別学で性差を補う授業をすれば成果があがるのは自明の理」だからだという。

 このような事実を前にして、「ブッシュ政権は三十年間の政策を逆戻りして、公立学校における男女別学級を奨励し、男子校・女子校を設立するための援助を惜しまないと発表した」。これらの事実を紹介したメリーランド大学講師のエドーワーズ博美氏は「アメリカが三十年かけて、ようやく気付いた誤りを、今、日本では男女共同参画名で繰り返そうとしている」(「脱・家庭崩壊社会への胎動」『正論』同前)と警告している。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-03-05 11:19 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年9月30日]

 この連載をここまで読まれた方は、ジェンダー・フリー社会を目指す人々は、家族を解体し、フリー・セックスを奨励して、一体全体どんな社会を創ろうとしているのか、と疑問に思われたと思う。八木秀次高崎経済大学助教授が「『男女共同参画』なんてカルトじゃないか」(『諸君』平成十三年一月号)という論文の中でこの疑問に答えてくれている。

 それによれば、「フェミニズム」という言葉を発明したのは十九世紀フランスの「空想的社会主義者」フランソワ・マリー・シャルル・フーリエである。フーリエは、家族を単位とする小農場経営こそが生産力の向上を阻害し、個人の自由を妨げる原因だと見て、家族制度を廃止して、各人が男女を問わず能力に応じて生産集団・生活集団を組織する「ファランステール」という「ジェンダー・フリー社会」を構想した。

 この社会においては、一夫一婦制は無意味となり、恋愛や結婚は従来の拘束から解放されて、いつでも解約可能な任意の結婚(つまり、スワッピングや雑婚)となり、子供たちは共同体の手によって育てられ、老人もまた共同体によって看護されることになる。男女とも同じ教育を受け、同じ経験を分かち合い、同じ職業の準備をするために、幼年時代からスカートとズボンという衣服で男女を区別することは避けられる。まさしく、「ジェンダー・フリー教育」そのものだ。

 このフーリエの構想は、共産主義の父であるマルクスやエンゲルスに受け継がれた。特にエンゲルスは、階級対立、支配・被支配の関係を男女の関係に当てはめて、家族は男が女を支配するための制度であるとして、女性解放のために、女性の社会進出の必要性を説いた。

 これらの思想を現実の政策として実施したのが、ロシア革命の立役者レーニンだった。彼は女性を家族制度の束縛から解放し、労働者として自立させるために、家事労働の共同化、保育所の設置、性の自由を奨励した。こうして見ると、「男女共同参画社会」=「共産主義社会」と言われる理由がよく分かる。また、かつては共産主義社会の実現を夢見ていた日教組が、ジェンダー・フリー教育に熱心な理由も理解できる。

 ところが、このレーニンの政策は大失敗して、ロシア社会は、堕胎と離婚の激増、出生率の低下、家族・親子関係の希薄化による少年犯罪の激増という事態に陥った。このために、ソ連政府は一九三四年にそれまでの家族政策を根本的に見直して、フーリエ以来の構想と決別し、家族を「社会の柱」として再強化した。すなわち、妊娠中絶を禁止し、離婚手続きを複雑化させ、子ども教育における両親の責任を重くした。家族が国家の基礎単位として重視され、女性は自由な市民としてよりは母として尊重されるようになった、というのである。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-03-01 20:36 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年9月29日]

 ジェンダー・フリー=フェミニズム思想から見て結婚は人間にとって最も大切な性交の自由を束縛するものだと前回書いた。これを裏を返せば、「フリー・セックス」こそ人権の根幹だ、ということになる。したがって、最近は高校生の四割前後がセックスを経験し、未成年者の中絶が増加しているという事実を前にすると、道徳教育の強化によって未成年者の性行動を抑えようとするのではなく、安全なセックスの方法を教えようという短絡的な議論が幅をきかせることになる。

 この考え方を端的に反映したのが厚生労働省が所管する財団法人が中学生向けに作成した性教育教材『思春期のためのラブ&ボディBOOK』だった。コンドームの付け方を図入りで紹介したり、「コンドームによる避妊は失敗が多いんだ。失敗率12%」「ピルを飲めば避妊効果抜群」と、女子中学生にピルを飲むことを奨励したりと、まるでフリーセックスの指南書と見まがうばかりの内容だった。

 これに対しては、さすがに各地から非難の声が上がり、絶版・回収ということになったが、批判の声が出はじめた当初は、ジェンダー・フリー思想に毒された厚生省は「中学生に読んでほしいという立場は変わらない」(母子保険課)という態度だった。

 このパンレットの内容で、もう一つ重大なのは、「子どもをつくるか、つくらないか」「産むか産まないか」「いつ産むか」「どんな方法で産むか」、「これを決めるのはすべて『自分』」という記述である。これはジェンダー・フリー思想で強調される「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」という概念を解説したものである。これは、妊娠、出産そして中絶も、すべて自分だけで決めるべき女性の権利であるとの主張で、このような過激なフェミニズム思想を中学生に注入しようとしたわけである。

 ここでは、“女性の権利”という主張によって、生命の尊重(胎児の命)が平然と無視されている。恐ろしいことだ。ただでさえ、母体保護法という悪法の下で、戦後すでに一億人以上の胎児が闇から闇に葬られてきたと言われている。一億人という数は、大東亜戦争における日本人犠牲者の実に三十三倍にあたる。このような状況を論じて、作家の曾野綾子氏は、日教組が言うように「国旗が血塗られたのなら、それは戦後だ」と辛辣な皮肉を書いている。

 今でさえこのような状況なのに、母体保護法にある「配偶者の同意」という条件を外して、女性のみの判断で益々容易に中絶を行うことができるようになったらどうなるのか。中絶が増加する(=少子化の加速)のは目に見えているし、それよりも何よりも、性道徳の退廃、生命軽視の風潮に一層拍車がかかるだろう。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-02-27 15:20 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年9月26日]

 聞いて驚かれるかもしれないが、ジェンダー・フリー思想の根底には「家族制度否定」の思想がある。どうしてかと言えば、ジェンダー・フリー思想とは、すなわち、フェミニズム思想であり、婚姻制度(結婚)は「フェミニズムとは相容れない」というのがフェミニストの主張だからである。フェミニストを自称する上野千鶴子東大教授は、自由の根源は「身体に関する自由」「性的自由」であるにもかかわらず、婚姻制度は「性的自由を相互に封印するという契約を交わすこと」だと言っている。要するに、自由な性交渉を妨げる結婚制度は廃止しろ、というのである。

 さすがに、こんな事をいきになり実現しようとすれば、多くの抵抗が予想される。そこで徐々に、段階的に婚姻制度・家族制度の解体を実現していこうというのが、「体制内フェミニスト」と呼ばれる大沢真理東大教授の戦術のようだ。

 彼女がリーダーシップを発揮した平成八年の首相への答申「男女共同参画ビジョン」では、この点について三つの具体的政策が提案されている。
①夫婦別姓の早期実現。
②主婦に対する優遇税制の廃止。
③性別による偏りにつながるおそれのある各種慣行の見直し。

 国民に反対の多い夫婦別性を男女共同参画を理由として強引に実現し、家庭を守っている主婦を無理矢理社会に引き出すために優遇税制を廃止し、とにかく何でもかんでも男女の別は差別であると決めつけて、男女を敵対関係に持っていく。こうして、真綿で首を絞めるように、外堀を徐々に埋めるようにして、家族制度を解体へ導こうというわけだ。

 このような「男女共同参画」に含まれている家族否定の意図を敏感に察知して、“結婚には多様な形があってよい”と口当たりのよい家族解体論を宣伝する自治体もあらわれてきた。山口県宇部市の男女共同参画課が発行したパンフレットでは、「結婚のかたち」と題して、「婚姻届けを出しません」(民法第739条違反)、「別々に暮らしています」(同第752条違反)、「夫婦別姓にします」(同第750条違反)、「独身で生活しています」(非婚)などと、現行法違反を堂々と奨励し、少子化問題をまったく無視して非婚をすすめている。

 このパンフレットは宇部市の男女共同参画「人材養成講座」の修了生が作成したものであったことから、市民や市会議員から「市の公金で何を教えているのか」と一斉に批判の声があがり、宇部市が作成中であった「男女共同参画推進条例」を根本的に見直すキッカケになったという。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-02-18 22:27 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年9月27日]


 前回「ジェンダー・フリー」は過激な文化破壊思想だと書いたが、日教組は「ジェンダーフリーの教育を」というパンフレットの中で、それがあたかも“世界的な流れ”ででもあるかのように宣伝している。それは、熊野市の「男女共同参画ステッププラン」でも同じだ。しかし、はっきり言ってそれは“まやかし”である。なにしろ、「ジェンダー・フリー」の旗振り役であり、平成八年に首相に提出された「男女共同参画ビジョン」の理論的リーダーでもあった大沢真理東大教授自身が、「ジェンダーそのものの解消を展望するとは、ラディカルというに値する」、先進諸外国でも「ジェンダーからの解放まで志向するものはない」と明言しているのだ。

 この過激思想の下でどのような政策が強行されようとしているのか、ご紹介しよう。まず、文科省の委嘱で日本女子社会教育会(現、日本女性学習財団)が作成した子育て支援パンフレット『新子育て支援・未来を育てる基本のき』。そこでは、ジェンダーにこだわった否定されるべき子育ての内容として、次のようなものが列挙されていた

 女の子には「優しい、愛らしい名前」「節句の祝い:ひな祭りのお雛様」「プレゼントのおもちゃ:ままごとセット,お人形,お化粧セット」「習い事:ピアノ,習字,バレエ」「『○○さん』と呼ぶ」「『かわいい』とほめる」「礼儀正しく、言葉遣いは丁寧に」
 男の子には「スケールの大きい、強そうな名前」「節句の祝い:鯉のぼりと武者人形」「プレゼントのおもちゃ:ミニカー,グローブ,サッカーボール」「習い事:水泳,体操」「『○○くん』と呼ぶ」「『カッコいい』とほめる」「女の子には優しくしなさい」

 このパンフレットはさすがに国会でも問題視されて、民主党の山谷えり子衆議院議員が「あまりに行き過ぎ。いい意味での女らしさや男らしさまで否定する必要があるのか」と質すと、なんと男女共同参画担当大臣である福田官房長官が「正直言って賛成しない」と答弁したのである。一体全体、担当大臣ですら賛成しないジェンダー・フリー政策が政府の権威を借りて行われつつあるとはどういうことなのだろうか。

 ジェンダー・フリー論者が「らしさ」を否定する背景には、男女の違いは、社会的・文化的に押しつけられたものを除けば、あとは「程度の違い」に過ぎないという思い込みがある。彼らは、それが「科学的」な思想だと「信じている」ようだが、最近では、それを否定する研究成果が次々と発表されている。例えば、オーストラリアの心理学者であるスティーブ・ビダルフ氏は、自国での過去三十年余の少年少女を実質的に同一と見なす教育は上手く行かなかったとして、少年の健全な成長のためには「らしさ」を正当に評価する教育が必要であると説いている(『男の子って、どうしてこうなの?』草想社)。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-02-15 08:26 | 新聞
[「吉野熊野新聞」平成14年9月26日]

「ジェンダー・フリー」という言葉を御存知だろうか。知らないではすまされない。なにしろ、熊野市では、今年から実施される「男女共同参画ステッププラン」の中で「ジェンダー・フリー」の視点からの教育や子育てを進めることを宣言しているのだから。ところが、この「ジェンダー・フリー」というのは、実は恐ろしい文化破壊思想なのである。

 平成12年に「日本女性会議」が津市で開かれた時、一人の志摩の青年が誇らしげにおおよそ次のような発表したという。「自分たちの地域は昔から男女共同参画社会だった。夫婦で沖へ出て、夫は命綱を握り、妻が海へ潜って、共に生活を築いてきた」と。すばらしい話である。ところが、この発言ほど「男女共同参画」「ジェンダー・フリー」に対する「麗しい誤解」と「強烈な反論」を合わせもった例もめずらしい。

 何故なら、「ジェンダー・フリー」が目指しているのは、単に男女が共同して社会を築く状態を促進するということではないからだ。「ジェンダー・フリー」というのは、「男女の区別」そのものが「女性に対する差別」の原因である見て、男女の区別や役割分担そのものをを否定する思想なのだ。だから、先の例で言えば、男と女が交替で命綱を持ち、男も海にもぐらなければ、「ジェンダー・フリー」の社会とは言えないのである。

 それだけではない。男女を区別するということは、男が支配者で、女が被支配者である構造を維持するものだと見なされる。だから、男が海の上で綱を握り、女が綱をつけられて海に潜る、つまり、「男が上にいて、女が下にいる」「男が女に綱をつけて、それを握っている」などという構図は絶対に認められないものなのだ。

 このような極端な考えの裏には、女はこれまで男によって虐げられてきた哀れな存在だったという女性の歴史に対する否定的な見方がある。これによって、日本女性の伝統的な在り方、行動様式、美徳といったものが、すべて「差別の結果」として否定される。これは過去の日本女性に対する著しい侮辱だと私はかねてから思っていたが、先の青年の発言は、私の考え正しさを証明してくれているように思う。

 志摩の海女さんたちは、男の奴隷として海に潜ってきたのだろうか。日本女性は鵜飼いの鵜のように男に操られてきたのだろうか。そうではないだろう。基本的には、女性の特性と男性の特性をしっかりと見極めて、互いが尊重し合う中から、それぞれに役割を分担して、家庭や社会を築いてきたのではなかろうか。

 しかし、こうした考えは「ジェンダー・フリー」の視点からは絶対に認められない。つまり、「ジェンダー・フリー」というのは、日本女性の伝統的な姿勢を男に対する隷従だと決めつけて、その誇りを真っ向から否定する過激な文化破壊思想なのだ。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2007-02-09 10:04 | 新聞
[「神社新報」平成16年2月16日]


 すでに二月二日の本紙上で報道されている通り、私と松浦光修氏は、今年度の大学入試センター試験の問題についての質問状を、大学の事務局を通じてセンターに提出した。先頃、それについての回答があり、その趣旨は、世界史については“大半の現行教科書に載っているので問題はない”、日本史と現代社会については“現在検討中で、後日回答する”というものだった。

 回答についての私の具体的反論は、「新しい歴史教科書をつくる会」のホームページに載せたのでそちらを御覧いただくとして、本稿ではこの問題の本質を、私がどのように見ているかについて述べてみたい。それを端的に言えば、体制内に入り込んだサヨク分子による、反国家・反伝統思想の「上からの強制」ということになる。

○権力に寄生する文化マルキスト

 下からの革命路線を抛棄して、体制に寄生し、権力をつかって、反国家・反伝統思想を押しつける人々を「文化マルキスト」と呼ぶらしい。このような人々の暗躍は、夫婦別姓、外国人地方参政権、として男女共同参画などの問題を通じて、ようやく世間に知られるようになってきた。
 そのような視点で捉えてみれば、教科書などは、戦後一貫して文化マルキストの最高の活躍場所だった。ところが、高校歴史教科書『最新日本史』(明成社)や中学校の『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』(扶桑社)の出現によって、保守の巻き返しがはじまり、やりたい放題というわけにはいかなくなってきた。
 そこで目をつけたのが、受験生にとっては教科書以上に絶対的な存在である「入試」を利用するという手段らしい。
 一旦、入試問題にすることに成功すれば、自己保身を本質とする官僚が守ってくれる。そして、“入試に対応できる”ということを至上命題とする教科書会社は、かならず、その項目(たとえば「強制連行」)を載せざるをえなくなる。つまり、入試→教科書→入試→教科書という悪循環のサイクルを構築することができるわけだ。それだけではない。一旦出された問題は、「過去問」という形で、センター試験を目指す将来の受験生たちを延々と拘束し続けることができる。

○教科書内容の徹底的調査を

 この悪循環を阻止するためにはどうするか。一つは、“教科書に出ている”という事が正当化の絶対的な根拠とされている以上、改めて、現在使用されている小中高校の教科書の内容を、採択率や頻度も含めて徹底的に調査し、その実態を正確につかむことが必要だろう。これについては、残念ながら、現在のところ、中学校の歴史・公民について詳しい調査が行われている(三浦朱門編著『教科書改善白書』小学館文庫)以外は、高校の家庭科、政治経済、国語といった教科書の問題点が部分的に指摘されているにすぎない。
 特に、今回、私達が指摘した「現代社会」は、まったく現代のことだけを扱っている教科書だけに問題が多いのではないかと予想される。

○センター入試の透明性を高めよ

 もう一つの対策は、センター入試の透明性を高めることである。具体的には、次の三点を公開させる必要があるだろう。①入試問題作成者の選定基準やその手続き、②入試問題作成の基準やその手続き、③作成された入試問題検討を検討する基準やその手続き。
 サヨクが寄生しやすい場所というのは、税金で維持されて潰れることがなく、閉鎖性が高くて、権力を握っている、という共通性がある。だからこそ、国民の目に常にさらされている、という状態にする必要があるのである。
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by nitta_hitoshi | 2007-01-26 22:39 | 新聞
(平成12年6月8日「産経新聞」アピール欄)


野党は、森首相の「神の国」発言を今回の総選挙の争点の一つに据えるつもりだそうだ。大いに論じてほしいが、議論の前提として是非とも踏まえておいてほしい事実が二つある。

一つは、近世中期以降に庶民に浸透した「神国思想」においては、天皇のみが神ではないという事実である。これはよく言われるように「神道は多神教だから」という意味ではなく、「国土も国民も神の子孫と考えられていた」という意味である。

 例えば、近世の天文・地理学者の西川如見は「此の国の人、昔、日神の裔たるの謂なり」「此の民は神明の後裔」などと『日本水土考』(一七○○年)の中で述べている。

 また、教育勅語発布当時に盛んに出版された解説書の中には「我国の地も民も皆神代の神のひらかせ給ひ生み成させ給ふ所なれば地と人民の始めは全く此君恩による事にて人民は皆君の末胤なる事はいふもさらなり。民一人として神の御末にあらざるはなく地一寸として神の御所有地にあらざるはなし。」(内藤耻叟述『勅語俗訓』明治二十三年)などと記されているものが多い。天皇と国土と国民の三者を「神の子孫」と考えるのが近世中期以降の神国思想の主流なのであり、だからこそ天皇絶対主義のバイブルのように思われている『国体の本義』(昭和十二年刊)でさえ、天皇を「現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり」とわざわざ断っているである。

もう一つの事実は、神国思想は神道の専売特許ではないということである。中世では日蓮、浄土真宗の存覚、禅宗の虎関師錬。近世以降は枚挙に暇がないが、林羅山、熊沢蕃山、司馬江漢、石田梅巌、本多利明、井原西鶴、近松門左衛門らが「神国」について述べている。特に近松の浄瑠璃は庶民に絶大な影響を及ぼした。さらに近代に入っては著名なキリスト者である小崎弘道が、すべては神の創造であり、思し召しであるという立場から「我国が神国であつて其皇室が天孫であり、其国体が特別なる国体であると云ふ事は決して吾人の信仰と衝突すべき者でない」(『国家と宗教』大正二年)と論じている。

 人権や環境保護が盛んに論じられている今日、国民や国土を神聖視する思想がどうしてそんなにいけないのか。歴史上多くの日本人に共有されてきた考えを口にすることが何故そんなに問題なのか。明確な答えが出るように盛んな議論の展開を期待したい。
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by nitta_hitoshi | 2006-10-14 13:00 | 新聞