新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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カテゴリ:講演( 14 )

質問2.現行憲法は現代の社会に適応しているか?

≪現行憲法は、冷戦以前の国際情勢を前提として、当時アメリカが考えていた未来予測に基づいて作成されたものです。ところが、その後の世界は冷戦の発生と終結、社会主義の崩壊とその後の文明を軸とした新たな対立構造の発生という二つの大きな変動を経験することになった。その点からすれば、日本国憲法は二世代前の憲法である。≫


 現行憲法の前文には、この憲法が前提としている世界観が書かれています。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
「平和を愛する諸国民の公正と正義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

 ここにあらわれているのは、日本、ドイツ、イタリアという不法国家さえ、大人しくしていれば、世界は自然に平和になるという、アメリカを中心とする当時の連合国の国際情勢理解に基づいた未来予測です。

 ところが、この予想は、あっと言う間に崩れて、はやくも日本の占領中に米ソの対立が始まり、平和を愛するアメリカと中国とが朝鮮戦争で激突するという事態が起きてしまいました。そこで、アメリカ・西ヨーロッパを中心とした自由主義諸国と、ソ連・中国を中心とした社会主義の対立という国際情勢の変化に対応するために、現憲法の前提や立て前に反して、日米安全保障条約を結び、自衛隊を組織するということになったわけです。

 したがって、現憲法は、本質的には、冷戦がはじまり、すべての連合国と平和条約を一挙に結ぶことが不可能になった時点で、すでに国際社会に適応していなかったと言えます。それにもかかわらず、憲法がそのまま続いてきたのは、厳しい国際情勢に自主的に対処していく自信と気力を日本が喪失し、経済的繁栄を求める道を選んだのと、そのような日本の選択をアメリカもよしとしたからです。日本が再び手強い競争相手となるよりは、経済的繁栄と平和憲法という美名の下で気概を失っていってくれた方が扱いやすい、それがアメリカの国益に叶うと考えたのだと思います。

 しかし、いまや国際情勢はさらに変化しました。アメリカのライバルであったソ連が崩壊し、社会主義国が次々に消えていった時には、これで世界から紛争は消え、もはや戦争など起こらなくなると楽観視に考えた人々もいました。ところが、事実は逆で、社会主義国家が崩壊すると、それらの地域では民族や宗教の違いによる内戦が勃発する。石油地帯においてアメリカとイスラム勢力との戦争や紛争が続発する。核を保有する中国が急激な軍拡を続け、経済力をも背景にして、国内ではチベット人やウイグル人を弾圧し、日本の排他的経済水域内の地下資源を狙いはじめました。さらに、アメリカはその中国を日本よりも重視する方向に動き出しています。

 こういう情勢の中で、二世代も前の憲法を後生大事に持ち続け、その古い古い世界観を次代を担う子供達に教えつづけ、アメリカ依存の心理から抜け出させないようにし続けるなどというということは、とてもバカげたことだと思います。

 も一つ言えば、近代憲法が前提としている、政府権力の制限による人権保障という枠組みそのものが時代遅れとなって、現代の社会に適合しなくなっています。

 いま我々の前で起きている現実は、国家が強く元気で豊かでなければ、憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限の生活を営む権利」も、「社会福祉、社会保障及び公衆衛生」も実現できないということです。政府が戦争をしないように国民が見張っているだけでいい、出来るだけ多くの権利を政府に対して要求すれば、それで幸せになれる。政府が、その国民の欲求に答えて大盤振舞すれば、それでみんな幸せ。こういう考えが幻想、妄想に過ぎないことを証明してみせたという点で、民主党政権の功績は大きかったと私は思っています。
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by nitta_hitoshi | 2010-05-14 20:05 | 講演
本日、日本青年会議所東海地区三重ブロック協議会主催の憲法タウンミーティングに出席してきました。そこで受けた質問に、私がどう答えたかを報告していきたいと思います。バネリストの相手は日本共産党三重県委員会の中野武史さんでした。

質問1.憲法とは何か?

《それぞれの国の歴史・伝統・文化を背景とした国家の役割と機能、および政府と国民との関係を規定した最も基本的な法律である》。

 昨年もパネリストとして参加させていただき、同じ様な質問を受けて、私は次のようにお答えしました。
「憲法とは一言で言うと何なのか」という御質問ですが、それは、「国を運営するにあたっての基本的なルールを定めたものである」ということです。ですから、憲法の意味を理解する上で前提となるのは、そもそも国家とは何なのか、何のためにあるのか、ということが分かっているということです。
 それでは、国家とは何なのかといいますと、その国土に住んでいる国民が望むような生き方を保障するために組織された、この地上においての、「最大最強の人権保護団体」だということです。」

 憲法や国家の本質が、年毎に変わるということは有り得ないわけですから、今年も同じような答えをするしかないわけですが、昨年は、国家と憲法の本質を理解するための例として、世界最初の近代憲法であるアメリカ合衆国憲法の前文を取り上げましたが、今年は、中野さんを意識して、少し意地悪く、社会主義崩壊後に造られたロシア憲法(1993年)の前文を紹介したいと思います。

われわれ、ロシア連邦の多民族からなる国民は、
自らの大地において共通の運命によって結びつけられ、
人の権利および自由、普遍的平和および調和を尊重し、
歴史的に形成された国家の統一を保持し、
普遍的に認められている諸民族の同権と民族自決権を基礎にし、
祖国への愛と尊重、善と公正への信頼をわれわれに伝えた祖先の栄光を追悼し、
ロシアの主権を再興し、その民主的基礎を確固たるものとし、
ロシアの安寧と繁栄のために努め、
現在と未来の世代に対し、われわれが祖国に負うべき責務に基づき、
世界共同体の構成員であることを自覚し、
ロシア連邦憲法を制定する。

 ここで言われているポイントは、基本的に、昨年紹介した合衆国憲法と変わりません。

①.一番目は、ロシアという国とその憲法は、それを構成している国民とその子孫の「安寧と繁栄」ためにあるということです。言うまでもないことですが、それぞれの国とその憲法は、外国人のためにあるわけではないということです。

②.二番目は、国家というものは、その国土で暮らしてきた先祖たちによって造られ、現在および将来の国民は、先祖が歴史的に形成してきた国家や価値観を、愛し、尊重し、誇りに思って、それを子孫に伝えていくべき義務を負っているということです。

③.三番目は、このような歴史的国家の存在があってはじめて、国民の権利、自由、平和が守られるということです。

 要するに、国家というのは、それぞれの国民が歴史的に形成された独自の価値観に基づいて生きていけるように、その人権と自由を守ることを使命とする最も頼りになる人権保護団体であり、その国家の役割と機能、および政府と国民との関係を規定した最も基本的な法律が憲法であるというわけです。
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by nitta_hitoshi | 2010-05-03 21:17 | 講演
(11)神話にあらわれた天皇像

 それでは、神によって不動と定められた公的秩序の中心者とはどのような存在で、どんな在り方をしなければならないと考えられていたのでしょうか。

 まずはっきりしていることは、天照大神にしても神武天皇にしてもそうですが、全知全能ではないということです。いっぱい失敗談が出てきます。試行錯誤があるのです。天照大神でも占いをしないとスサノオノ尊の心の中が読めないのです。

 全知全能でないのなら、中心者としてどのような特性が求められているのか。それはどうやら、その存在がなければ神々や人々が自分の能力をちゃんと発揮することが出来ない存在ということのようです。全くの暗闇になってしまったら神々も力を発揮できない。思兼神という知恵第一の神がいようとも、手力雄神という力第一の神がいようとも、すべての神々に光を与える存在、今の言葉で言えばエネルギーとかパワーを与え、力づける存在。決して全知全能ではないが、そうであるが故に、他の神々の意向を汲み取って、それぞれにふさわしい場所を与え、能力を発揮させる存在とでもいいましょうか。

 このような存在であり続けるために、つまり、天照大神が神々を統治している精神をそのまま継承して、神々の子孫である国民を統治するために、天照大神はニニギノ尊に「私だと思って祀りなさい」と鏡を渡されるわけです。祭りを行って、自らの精神を清め、高め、それによって国民の気風をも清め高める。さらに、天照大神が授けられた稲の稔りに象徴されるこの豊かな国の発展を祈る。

 さらに、物語の流れをずっと見ていきますと、排他的に天神だけを尊重するのではなく、あらゆる要素を皇室が取り込まれていることがわかります。まずタカミムスビノカミの力、スサノオノ尊の荒々しい力、それから、日向の国津神である山の神、海の神、そして東征されてから後は大和の豪族の娘との結婚という形で、あらゆる地域の多元性を取り入れています。おそらくこういう伝統があったからだと思いますが、平安京を開かれた桓武天皇のお母さんは百済系の人です。ですから、朝鮮系の血も皇室にはもちろん入っている。「天皇は多元世界の統合者である」と、古代史家の高森明勅氏が言われていますが、こういう様々な要素を統合した存在が、天皇という存在なのです。(了)
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by nitta_hitoshi | 2006-12-15 06:38 | 講演
(11)神話にあらわれた国家像

 これが神話から神武天皇の物語までの大筋ですが、今まで述べてきたことをもう一回おさらいするとどういうことになるでしょうか。そこに表現されている国家観を一言で言えば、この葦原中国、日本国は天上の秩序が地上にもたらされた国家なのだということです。つまり、「地上の神の国」だということです。この地上の神の国は、どのようにして出現したのか。それは、同時に、国家という公共秩序がどのようにして創出されたのか、ということでもありますが、そこには「正しい順序がある」ということのようです。すなわち、先ず、地上(現実)に先立つ世界(天上=理念や心)の秩序(原理・原則)を形成しなければならず、しかる後に現象界に手をつけてはじめて秩序形成はうまくいくとする考えが秘められているように思います。

 それでは、その秩序形成の核となる原理とは何かということですが、先ずは「中心者が存在しなければならない」ということであり、次に「秩序が安定するためには、中心者は不動でなければならない」ということのようです。よく神道を指して「多神教」だと言いますが、単なる多神教状態ではダメだというのが神話の語るところです。天照大神が天岩窟に隠れられた時だって、高天原には手力雄神もいれば思兼神もいらしたわけです。ところが、いくら能力高い神々がたくさん居ても、それだけでは世界は「常闇」で、混沌として、昼夜の交代も分からない、つまり、秩序が整わないのです。だから、やはり天上の神々にも中心者は必要だということで、天照大神の再出現を願ったわけです。

 こうして天上の秩序回復されると、次に、その秩序が天孫降臨という出来事を通じて地上に移されるわけです。天上では天照大神という中心の神がその他の神々を治めておられる。それと同じように、この葦原中国では、天上の中心者の神の子孫である天皇が、天上の神々または地上の神々の子孫である国民を治められている。こういう構図になるわけです。そして、この国民のことを、「元元」(おおみたから)であると神武天皇は詔の中で言われています。国の根本、大切な宝物だというのです。

 ところで、一旦中心者が決まっても、それがくるくると変わるようでは秩序は安定しません。ですから、中心者は不動であることが望ましいわけですが、天上の世界はともかく、地上の人間は必ず死すべきものですから、中心者の不動を願っても、それは不可能です。ならばどうするか。中心者の地位の継承を安定させるしかありません。そこで、その継承方法を、神によって特定の血統に固定されたものとして、全体の合意を形成したということなのでしょう。

 さらに言うと、シナにおいては、民を統治すべき天命は皇帝一人が受けるものですが、日本の神話ではそうではありません。もちろん、天皇には葦原中国の主たるべき天命が与えられていますが、その他の神々にも、各々の子孫が代々受け継ぐべき固有の天皇補佐の役割が天命として与えられているのです。この点もシナの思想と比較して、あるいは後の歴史に鑑みて、見逃せない点だと思います。

 ここで、少し付け加えますと、神道の神観念を指して多神教だと言う人がよく引用するのが、本居宣長による神の定義です。本居宣長は神を定義して、「すべて普通でないもの、尋常ならざる力をもった物はすべて神だ。だから人間も神になることができる」と言ってます。しかし、それは宣長がいっていることの一面に過ぎません。宣長は、有名な『古事記伝』の第一巻である「直毘霊(なおびのみたま)」において、「神」の定義とは別に、「神道」を定義して、「タカミムスビノ神の御霊によって、イザナギ・イザナミの神によって始められ、天照大神によって継承され、さらにニニギノ尊に委任された、皇孫による統治の道である」と述べています。つまり、神々が皇統を中心とした一筋の道に整えられた時にはじめて「神道」は存在するというわけです。これが宣長の神道論です。ですから、その辺のことを理解しないと宣長の言っていることを誤解することになると思います。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-12-12 21:49 | 講演
(10)神武東征2

こうして、神武天皇は自分と息子のタギシミミノ命だけになってしまわれるわけですが、それでも、志を捨てずに熊野をさらに北上して荒坂津(あらさかのつ)にいかれるわけです。ここで、神武天皇は丹敷戸畔(にしきとべ)という者を征伐しますが、そこに悪神がいて、その毒気で将兵が倒れてしまいます。この時に、熊野の高倉下(たかくらじ)という者の夢に天照大神とタケミカズチノ神が現れて、天皇の軍隊を助けるために、国譲りの時にタケミカズチノ神が用いた剣を与えると告げられます。この剣を高倉下が天皇に献上したところ、天皇も将兵も毒気から解放されて目覚めたと伝えられています。

 次に、神武天皇はこの荒坂津から山を越えて大和に入ろうとされるわけですが、険しい山道で道に迷われてしまいます。その時にも、神武天皇の夢に天照大神が現れるわけです。そして、ヤタガラスという烏を遣わせるからその導きによって山を越えなさい、と告げられます。このヤタガラスに導かれて、大和の菟田(うだ)の下県(しもつあがた)という所へ到着することができました。

 神武天皇は、そこで再び大和の豪族達と戦うことになりますが、その時も夢に天神(おそらく天照大神)が現れて、戦う前にお祭りをしなさいと言われます。きちっとお祭りをすれば必ず戦いに勝つことができる、ということを言われるわけです。そこでその御命令に従ってお祭りをして、八十梟帥(やそたける)ー一人の名前ではなく大和地方にいた豪族たちを言うーと戦ってこれを破る。

 そして八十梟帥を破った後、再び宿敵の長随彦と戦うわけですが、この時もまた勝利することができませんでした。ところが、神武天皇の軍が危うくなった時、氷雨がふって、金の鵄が飛んで来て、神武天皇の持っていた杖の先にとまって光を放ちます。その光によって長随彦の兵は目が眩んで二度と戦う気力が無くなってしまったと『日本書紀』は伝えております。

 ところで、神武天皇に根強く抵抗した長随彦ですが、彼は大和地方を支配する豪族達の首領ではなくて、饒速日(ニギハヤヒノ)命につかえている豪族でした。この饒速日命は、実は天から降ってきた天神でした。それで、長随彦は神武天皇に対して「天神がすでに来ておられるのに、なんでお前が来るのだ。お前は偽物か」ということを問いただす訳です。そこで、神武天皇と饒速日命とが互いに証拠品を見せあって、互いに本物だということを確認するわけです。

 これはどういうことなのかと言いますと、私共の大学の名誉教授である田中卓先生は、高名な古代史学者ですが、その田中先生の説によれば、史実としては九州勢力の大和への侵入は一回だけではなく何回もあったと言うことです。大和に次々と入ってきた九州勢力の最後の中心者が神武天皇だった。ですから、大和に天神がいてもおかしくないし、饒速日命は神武天皇以前に大和に入った九州勢力の首長で、大和の豪族たちと連合政権を作っていたということになるわけです。田中先生の説は、神話や伝承は史実そのものではないが、全くの虚構なのではなく、そこに史実が反映されているという「史実反映史観」です。

 とにかく、大和には饒速日命という天神がいて、国神である長随彦がそれに仕えていた。その饒速日命には神武天皇がこの国を治めるべき人だとわかっていたけれども、自分の部下である長随彦は心がネジ曲っていてとてもそのようなものの道理が分かる人間手ではないことを知っていた。そこで、饒速日命は長随彦を殺して神武天皇に帰順する。この饒速日命の子孫が後の大和朝廷で中心的な豪族となる物部氏です。

 こうして大和を平定した神武天皇は、大和に都を作る宣言をされます。それが「橿原宮造営の詔」で、有名な「八紘を掩いて宇と為さん」という言葉はこの詔の中にあります。この宣言の後、神武天皇はこの土地の神様の娘であるヒメタタライスズヒメノ命を妃に迎えます。今の大阪府茨木市・高槻市を中心とした地域の豪族の娘のようです。そして、この方との間に生まれた皇子が第二代の綏靖天皇です。

 こうした過程を経て、ついに辛酉の年の春正月に橿原宮で天皇の御位につかれました。この年を『日本書紀は』は「天皇元年(すめらみことのはじめのとし)」と書いています。それから、神武天皇の四年二月に、天皇は詔を発して、「大孝を申す」ために鳥見山(とみのやま)で皇祖天神を祀られます。この場合の皇祖天神とはタカミムスビノ神と天照大神だと考えてよいと思います。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-12-11 20:54 | 講演
(9)神武東征1

 さて、『日本書紀』が伝える神武天皇の物語は、「天下の主たる者」と定められた皇統の継承者が、どのようにしてこの地上に国家を建設したかを語る物語なのですが、ニニギノ尊は九州に降ってこられたわけで、日本の中心地に降りてこられた訳ではありませんでした。したがって、そこにとどまったままでは、御祖先の神々の御命令を実現した事にはならないのです。

 神武天皇はニニギノ尊から数えて四代目にあたられますが、十五歳で皇太子となり、アイラツ姫という日向の吾田邑(あたのむら)の国神の娘と結婚して、そこでタギシミミノ尊というお子さんが生まれられます。しかし、四十五歳の時に、御祖先の命令を実現するために日本の中心地へ移動することを決意して、お兄さんや子供達に東征の相談をされます。この時に神武天皇が述べられたとされているのが、「神武東征の詔」です。そして、人々の同意を得て舟で東征に出発されるわけです。

 それでは、神武天皇がどういう経路を通って大和に入られたかといいますと、まず日向から出発されて九州と四国の間の速吸之門(はやすいのと)というところを通られます。ここで珍彦(うずひこ)という神が現れて神武天皇に従います。この珍彦という神は椎根津彦(しいねつひこ)とその時名前を変えます。それから今の大分県の宇佐市にあたる宇沙に行かれます。続いて、筑紫の国の岡水門(おかのみなと)、それからさらに本州に入られて、広島辺りの安芸の埃宮(えのみや)に行かれます。それから瀬戸内海を通って、吉備の高島に宮を作られて三年間滞在されます。ここまではずうっと順調に進んで来られるのですが、大阪から上陸されてから多くの困難に直面されることになります。

 浪速国から河内国の白肩津(しらかたのつ)に進出されて、ここから生駒山を越えて大和に入られようとされますが、そこで待ち構えていたのが神武天皇最大の敵である長随彦(がすねひこ)でした。この長随彦と孔舎衛坂(くさえのさか)で戦って負けます。負けた上にお兄さんのイツセノ命が負傷される。そこで、蓼津(たでつ)というところまで退却されます。そして、相手が強力なのでこのままの進路では大和に入ることはできないと考え直して、紀伊半島を迂回して大和に入る作戦を立て、紀伊水道辺りの雄水門(おのみなと)を通られる。そして、紀国(きのくに)の竃山(かまやま)まで来た時にお兄さんのイツセノ命がお亡くなりになるのです。

 それから、名草邑(なくさのむら)に到着。さらに、紀伊半島の一番南から少し伊勢寄りに上がったところの狭野(さの)を越えて、熊野に入られる。ここで神武天皇は暴風雨に合われます。この暴風雨に合った時に、お兄さんのイナイノ命が海に身を投じて鋤持神(さいもちのかみ)になったと伝えられています。鋤持というのはサメの事です。また、もう一人のお兄さんのミケイリノノ命も常世郷(とこよのくに)に去ってしまわれた。つまりお兄さんたちは皆いなくなってしまったわけてです。

 ここの物語がちょっとおもしろくて、神武天皇御兄弟のお母さんとお祖母さんはいずれも海の神の娘でした。「私たちは海の神の子孫なのに、何でこんなに海は自分たちを苦しめるんだ」と嘆かれて、お兄さんたちはいなくなってしまったという言い伝えになっております。
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by nitta_hitoshi | 2006-12-09 10:54 | 講演
(8)日向三代

 さて、神話の最後は日向三代です。ニニギノ尊が天降られましたのは、日向の高千穂、つまり九州でありまして、いきなり日本列島の中心に天降られたのではありませんでした。この九州で皇統が三代続きます。一代目が天下られたニニギノ尊、二代目がヒコホホデミノ尊、三代目がウガヤフキアエズノ尊、このウガヤフキアエズノ尊の一番末のお子さんがカンヤマトイワレビコノ尊、すなわち神武天皇です。

日向第一代のニニギノ尊はコノハナサクヤ姫というお姫様と結婚されますが、このコノハナサクヤ姫はオオヤマツミノ神の子と伝えられております。つまり山の神様の娘さんと結婚されたわけです。この神は国神(くにつかみ)、すなわちこの地上におられた神です。そしてヒコホホデミノ尊が生まれられるわけですが、このヒコホホデミノ尊はトヨタマ姫と結婚されます。これは海神の娘であり、この神ももちろん国神です。このヒコホホデミノ尊とトヨタマ姫との間に生まれたウガヤフキアエズノ尊は、タマヨリ姫と結婚しますが、このタマヨリ姫はトヨタマ姫の妹で、これまた海の神の娘です。

 こうして、日向三代の間に天神(あまつかみ)と国神との融合が行われただけでなく、それぞれ結婚される相手も山の神、海の神ということで、様々な異質な力が糾合されていくという物語になっているのです。そして、ウガヤフキアヘズノ尊とタマヨリ姫との間にヒコイツセノ命、イナイノ命、ミケイリノノ命、カンヤマトイワレビコノ命、すなわち神武天皇という四人のお子さんがお生まれになります。ここまでが神武天皇のお話しの前提をなす神話の部分です。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-12-07 20:42 | 講演
(平成12年10月7日、第十五回歴史体験セミナー、研修Ⅰ)


(7)五大神勅について

 これが『日本書紀』正文で語られている物語の粗筋です。ここで、正文以外の異説を記録した部分に書かれていることについても少し触れておきたいと思います。というのは、有名な「三種の神器」や「天壌無窮の神勅」についての記事は、実は正文ではなくて、異説を記録した部分に載せられているからです。以下、異説を一書の第一、第二、第三・・・と言う形で区別します。

 その中の一書の第一では、天照大神がニニギノ尊に三種の神器、すなわち鏡、剣、勾玉を授けられます。それから、五部神(イツトモノオのカミたち)ーこれはさっき申し上げましたが、天岩窟の時に、天照大神を呼び出すために苦労された神々、つまり、思兼神や手力男神などーに、部下としてニニギノ尊のお供をして降だるように命令される。さらに、わゆる「天壌無窮の神勅」(葦原の中つ国は私の子孫が永久に治める国だという宣言)を与えられています。

 次に一書の第二では、ニニギノ尊のお母さんのお父さん、つまり母方のお祖父さんにあたるタカミムスビノ神が、ニニギノ尊について行かれる家来の神々であるアメノコヤネノ命とフトダマノ命に「神籬磐境(ひもろぎいわさか)の神勅」を下されます。「神籬磐境」というのは、天上界でお祭りをする時に必要な祭壇のことですが、これを持って地上に降って、天孫のため、つまりニニギノ尊およびその子孫の天皇方ために、お祭りをしなさいという命令です。

 正文では天孫のニニギノ尊が直ちに降られたということになっていますが、この一書の第二では、お父さんのオシホミミノ尊が天降られる途中でニニギノ尊がお生まれになったので、急遽にお父さんに代わって降られたということになっています。そして、その前に天照大神が息子であるオシホミミノ尊に示されとされる神勅が二つ載っています。一つは、「宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅」と呼ばれるもので、三種の神器の一つである鏡を私だと思って祭りなさいという御命令です。もう一つは、「斎庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅」で、これは高天原で作られている稲を授けるからこれで国民を養いなさいという御命令です。また、天照大神は、アメノコヤネノ命とフトダマノ命に対しても「侍殿防護(じでんぼうご)の神勅」を与えています。これは「宝鏡奉斎の神勅」と対をなすもので、「おまえたちはニニギノ命と同じ建物の中にいて侍って守れ」という命令です。

 以上のような諸伝の中からは、この国の主たる者はいかなる仕事する存在でなければならないと考えられていたのかが、おおよそ浮かび上がってきます。つまり、天照大神の心を心として国民を治め、いつも天照大神から授けられた鏡を見て自分の統治が正しいかどうかを反省し、稲を見事に育てて国民を養い、それを大神に報告しなければならないわけです。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-11-17 19:04 | 講演
(6)天孫降臨による地上秩序の創出

 天照大神の子のオシホミミノ尊は、タクハタチチ姫と結婚されます。このタクハタチチ姫はここではじめて出てくる神様ですが、『古事記』でタカミムスビノ神の娘とされています。この二神の結婚によって、アマツヒコヒコホノニニギノ尊が生まれます。これは天照大神からみれば孫にあたる神様です。この神様を地上に下して地上の主にしようとタカミムスビノ神が考えられるわけですが、しかし、地上を見てみると様々な邪神が横行して乱れている。

 そこで何とか秩序を回復した後に中心者を下さないといけないということで、まずアメノホヒノ命、この神様は誓約のときに二番目にお生まれになった天照大神のお子様ですが、この方を遣わす。次いで、アメノホヒノ命の息子のオオセヒミクマノ大人(うし)、さらにアメワカ彦と、次々と派遣するわけですが、みんな地上の神々に媚びて、天上界に報告せず、結局失敗してしまいます。

 最後に、フツヌシノ神とタケミカヅチノ神を遣わして、地上の一番の実力者であったオオナムチノ神、すなわち大国主神と交渉させます。すると大国主神は自分の子供のコトシロヌノの神に相談する。そしたらコトシロヌシノ神は「この国を天つ神に譲りましょう」ということで海中に退去され、大国主神も国譲りをして隠居します。

 すべての神々を指す場合に「天神地祇(てんじんちぎ)」という言葉を使いますが、天神も地祇もともに神様という意味ですが、そこには一応区別があって、天神は高天原の神々を指し、地祇は葦原中国(あしはらのなかつくに)、この地上の神々を指します。この地祇のことを国神(くにつかみ)とも言います。ですから、国譲りというのは、国神である大国主神が葦原中国の支配権を天神の子孫に譲り渡したということです。こうして、地上の秩序が整った時に、ニニギノ尊はまだ赤ちゃんでありまして、マドコオフスマというものにくるまれて日向の高千穂の峰に降りてこられるわけです。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-11-16 21:03 | 講演

(平成12年10月7日、第十五回歴史体験セミナー、研修Ⅰ)


(5)高天原の混乱と秩序の回復

 さて、サノオノ尊は、根国に行く前に、姉の天照大神に別れの挨拶をするために高天原へ昇っていきました。ところが、天照大神は弟の気持ちが分からずに、乱暴しにきたのだろうと疑い、戦う準備をして待ち受けていました。そこで、スサノオノ尊は、疑いを晴らすために誓約(うけい)、つまり、占いをすることを申し出ます。どういう占いをしたかと言いますと、お互いの持ち物を取り替えて子どもを生むという占いです。

 その時の初めの約束では、スサノオノ尊が生んだ神が男だったらスサノオノ尊の心は正しく、女だったら悪い心をもっているというものでした。このように確認した上で、お互いの持ち物交換して子どもを生みました。すると、天照大神は、スサノオノ尊がもっていた剣から、女性の神を生みました。タゴリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメです。他方、スサノオノ尊は、天照大神が持っていた玉から、男の神を生むという結果になりました。マサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノ尊と、他に、アマノホヒノ命など男性の四神です。つまり、生んだという事実から見れば、スサノオノ尊は悪い心を持っていなかった、正しかったということが証明されたわけです。

 ところが、結果が出た後で、天照大神がなんと言ったかというと「あなたの生んだ子は私の持ち物から生まれたのだから、私の子だ」、つまり「私が男の神を生んだんだ」と言い出したわけです。勝負がついて後で、ルール変更して、強引に自分勝ちにしたわけです。兄弟喧嘩なんか、よくこういうことから起きますね。これは、どうみても高天原の中心者の神様としては相応しくない、不完全な振る舞いなわけです。そもそもが、天照大神が弟の気持ちを誤解したので占いをしなければならなくなったわけですから、誤解したこと自体が神様としては問題なのに、その上、自分の間違いを認めずに、強引にルールを枉げて自分の正しさを主張しようとしたわけです。このように、この時までの天照大神は、高天原の中心者として、まだ完全ではなかったわけです。

 このような天照大神の振る舞いにスサノオノ尊は激怒します。今の言葉で言えば「切れた」わけです。そして、高天原で大暴れを始めます。そうしたら、天照大神はどうしたかというと、今度は弟を止めようとしないで、天の石窟という穴の中に隠れてしまいました。よっぽど後ろめたかったのかもしれませんが、問題に立ち向かうことを避けて、いわば「引きこもってしまった」わけです。そうしたら、高天原は、真っ暗になって、様々な災いが次々に起こるようになりました。

 色々と素晴らしい力をもった神様たちが高天原には沢山いらしたにもかかわらず、秩序の中心者、太陽のカミ、神々に光のエネルギーを与える存在がなくなってしまったら、大混乱に陥ってしまったわけです。

 困った神々は、天安河辺(あめのやすのかわら)という所にあつまって対策を相談しました。その時に、智恵の神様、思兼神というカミの提案で、石窟の前でお祭りや踊りをして、天照大神が不思議におもって戸を開けた時に、力持ちの神様、手力雄神に引き出してもらうことにしました。この計画がうまくいきまして、再び天照大神を高天原の中心者に復帰させることができました。

 実は、この時に天の石窟の前で行って祭りや踊りが、神道の祭祀、お祭りや、神様を楽しませるための踊り、神楽のはじまりなのです。

 このような失敗と引きこもりという試練を経て、天照大神は天上の中心者に相応しい、人間でいえば人格、神様ですから「神格」に成長するわけです。

 他方、スサノオノ尊はどうなったかと言いますと、大暴れして罪で高天原を追放されまして、葦原中国に降りてくる。そして、出雲の国に行き、そこで、奇稲田姫という女性に出会い、その女性を食べようとしていた八岐大蛇という怪物を退治するという、これまた試練を経て、一人前の男、立派な神、単なる乱暴者から、英雄へと変身していきます。

 このように神様も、最初から完全なのではなくて、様々な失敗や試練を経て、成長していく、完成していく、というのが日本神話の特徴です。神様ですらそうなのですから、人間がいろんな失敗や挫折をするのたは当たり前です。大切なのは、失敗しない、間違えないということではなくて、失敗や間違えから、何か大切なことを学んで成長することなのだ。日本の神話には、そんなメッセージが込められているような気がします。です。

 さて、こうして天上の秩序が整うと、次に地上の秩序を整えるという作業に、神話の筋は移っていきます。(つづく)
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by nitta_hitoshi | 2006-11-05 09:03 | 講演