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新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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「修身」否定の感覚について考える 3

 次に、もう一つ梅原氏の近代日本の道徳に対する批判を紹介したい。彼は小泉首相の靖国神社参拝に反対する理由として、「靖国神社のあり方が本来の神道からの逸脱であることはいうまでもない。日本の神道というのは、これは“祟り”という考え方にもつながるのだが、自分たちが滅ぼした者を祀るというのが本来のあり方であった」(『潮』平成十四年九月号)と言い、「戦争で犠牲になった敵の人を祀る神社をつくらず、自国のために死んだ人間を祀るなど、日本の神道の精神に背くというのが私の考えです」(『世界』平成十三年八月号)と述べている。

 一見もっともらしい批判のように聞こえるが、実は、この議論は三つの基本的な無知の上に組み立てられている。

 一つは、歴史に照らせば、「自分たちが滅ぼした者を祀る」ということが“神道の本来の在り方”などとはとても言えないということである。もし梅原氏のいう通りであるとすれば、大和朝廷の形成・発展の段階でそれに抵抗した勢力を祀る神社ないし祭祀が、古代国家の祭祀体系の中で重要な位置を占めていなければならないはずだ。ところが、朝廷から重んじられた二,八六一社、三,一三二座の神々や、恒例の祭祀である四時祭の中に、そのような本質を見出すことはできない。

 二つ目に、梅原氏は近代日本の慰霊の実態を知らず、また、近代初期の廃仏毀釈によって仏教が滅んでしまったと錯覚しているために、靖国神社だけで慰霊が完結していると思い込んでいるらしい。そこから、“敵を祀らなかった”などという妄言(猛言?)が生まれてくることになる。

 靖国神社や護国神社は確かに英霊が最後に鎮まる公的な場ではあったが、そこでの祭祀が鎮魂慰霊の唯一の儀礼だったわけではない。戦地においては各部隊に従軍した僧侶などによって慰霊行事が盛んに行われていたし、内地における公葬なども仏式が多かった。そうしたものに神職が基本的に関われなかったのは、戦前には神職は葬儀や説教に関わってはならないとの法規が存在し、そのために、昭和十二年まで従軍を許されなかったからである。

 日本軍は戦地において確かに敵を祀る「神社」はつくらなかった。 しかし、敵を葬る墓や慰霊施設は盛んに建設し、敵味方を共に祀る合同慰霊祭も盛んに行っていたのである。例えば、日露戦争後、日本はロシア軍将兵の墓地を整備し、礼拝堂を建立したが、日本軍将兵のための「表忠塔」を立てたのは、それよりも二年も後だった。支那事変においても各部隊は各地で「中国無名戦死之墓」を建立している。特に、南京陥落の後には、南京郊外に「南京戦歿支那陣亡将士公墓」を日中両国僧侶と自治委員会が共同で建立し、第三師団長の藤田進中将が大谷光暢法主を導師として慰霊祭を執行している。このようなことは、大東亜戦争においても同様だが、シンガポール陥落後に山下奉文将軍が行った合同慰霊祭などが有名である(詳しくは、名越二荒之助編『世界に開かれた昭和の戦争記念館』全五巻、展転社を参照)

 三つ目の無知は、現在の靖国神社には、昭和四十年に建立された「鎮霊社」という「全世界の戦死者や戦禍犠牲者」の霊を祀る社があることを梅原氏が知らないことである。それだけではない。軍馬や軍犬の慰霊像や、伝書鳩の慰霊塔まである。梅原氏は、多神教を大変高く評価している方なので、このような事実を知れば、きっと首相の靖国神社参拝に賛成し、新たな国立慰霊施設など必要ない、と主張されるに違いない。

 さて、今後再び、教育基本法の改正や国立慰霊施設の建設をめぐる論議が活発になりそうな雲行きである。その議論の是非を判断する上で、先ずは過去についての正確な事実を探求することが大切なのだということを御理解いただけたとしたら、本小論の趣旨は達成されたといえるだろう。誤った作戦行動に出ないためには、先入観を排して、正確な情報を収集することが大切であるということなど自衛隊の幹部の方々には釈迦に説法というものだろうが、日常生活の中では意外にこの大原則が無視されがちなのである。(了)
by nitta_hitoshi | 2007-04-08 08:23 | 雑誌