新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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世俗合理主義を脱した神道とは何か

(「神社新報」平成18年9月25日)


 神社新報創刊六十周年記念事業として、葦津珍彦著・阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』の新版が刊行された。初版からはすでに十九年が経っている。今の日本の出版事情を考えると実に息の長い本である。本書が何故に長寿を保ち、さらに新版まで出されることになったのかと言えば、それは本書の刺激的な内容が学界や宗教界に大きな影響を与え続けてきたからに他ならない。その点については、本書に新たに付加された二人の若き研究者の解題(藤田大誠「『神道人』葦津珍彦と近現代の神社神道」、齊藤智朗「『国家神道とは何だったのか』と国家神道研究史」)に詳しい。したがって、本書の世間的な意味や評価については、両氏の解題を御覧いただくことにして、拙文においては、少し痴がましいが、本書の私にとっての意味について書きたいと思う。

 本書の私にとっての意味は二つある。一つは研究に対する意味である。私が日本の政教関係についての論文を書き始めたのは昭和六十三年のことだが、本書はその前年に出ている。振り返ってみれば、私の研究は、葦津氏が本書の中で提起した図式、解釈、課題にしたがって、それを吟味したり、精密化したり、発展させたりして来たと言っていい。こういう言い方は故人のお気に召さないかもしれないが、葦津珍彦というお釈迦様の掌を飛び回っていた孫悟空のような気がしないでもない。

「神社非宗教論」に対する浄土真宗の影響。「国家神道」の定義。「宗教弾圧」に対する考え方。大正昭和期の民間思想運動への注目。国家管理された神社神道に対する低い評価と在野の神国思想に対する共感。まぼろしの「国家神道」像を占領軍に諂った御用文化人が広めたとの指摘。

 最初の拙著『近代政教関係の基礎的研究』(大明堂、平成九年)は、浄土真宗の動きへの注目などを主軸として、「国家神道」という用語使用の不適切さを様々な角度から論じたものであり、その後の「国家神道」論の系譜の研究は、「国家神道」というまぼろしの形成過程を学説史という観点から追究したものである。さらに、『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP研究所、平成十五年)は、「現人神」という観念の形成過程という視点を加えて、いっそう包括的に、「国家神道」という幻想の発生・発展・定着の過程を論じものだった。

 本書の私にとっての意味の二つ目は、思想や信仰に関するものである。本書において葦津氏は、国家管理時代の神社神道について、「その精神は、全く空白化してしまった無精神な、世俗合理主義で『無気力にして無能』なものであったというのが歴史の真相に近い」と断言している。それなら、世俗合理主義を脱した神道とは何か。本書と同時期の『神国の民の心』には「神懸りの神の啓示によって、一大事を決するのが古神道だった」「神の意思のままに信じ、その信によって大事を決するのが神道ではないか」とある。

他方で、葦津氏のいう神憑りを重んじる信仰は、皇室による国民の精神的統合を否定する地方分散的なものでも、現世利益的なものでもない。むしろ、天皇の国平らかなれ、民安かれの祈りを尚ぶところに神道の本質を見、治国平天下の道を神々の啓示に求める。さらに、「天朝そのものへの信と、天朝の勅書への信とは時として異なることがありうる」と構え、「神典に阿らず、詔勅に阿らず」「師父に対する忠信忠誠によって、師父の言説を修正するすることもあり得る」と覚悟する。科学者と厳正同一の研究手続きを守りつつ、しかし、それが固有する根強い「不信の精神、疑いの精神」とは不断の緊張的対決関係に立つ(「神道教学についての書簡」)。これが内実ある神道者なのだと葦津氏は言う。その言葉は、私が神道や皇室について考えたり、書いたりする時に、いつも眼前にあった。

 ところで、本書の解題を若い研究者が担当したのは、「葦津先生の志や問題意識を継承し、発展させていく意味においても、あえて葦津先生の生前の姿を知らない若手の研究者たちに依頼する方が良い」との阪本是丸氏の考えによるらしい。「筆者にとって最も大事なことだと思われたのは、自らが『日本人』であり『神道人』であると自任しているのならば、現在にまで微かにも残されている『最後の一線』は何としても死守しなければならない、と言うことである」(藤田氏)。「国家神道が廃止された後の神社神道の将来あるべき姿の追求を、これからの神道人が行うべきことを指し示しているのではないだろうか」(齊藤氏)。彼らの解題の末尾に付されたこの言葉を見るとと、阪本氏の意図は十分の生かされたと言えそうだ。葦津氏の霊がこれからも彼らを導かれることを願って筆を擱く。
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by nitta_hitoshi | 2006-10-02 20:01 | 書評