新田均のコラムブログです


by nitta_hitoshi
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一部の浄土真宗僧侶が靖国神社に反対するわけ(3)

平成14年11月1日『やすくに』

自虐史観にとらわれた反「ヤスクニ」

 さらに、「基幹運動」における反「ヤスクニ」の背景には、まさに「自虐史観」と呼ぶにふさわしい「西本願寺」の歴史認識がある。平成七年の四月、「本願寺派」は宗祖親鸞を祀っている御影堂において終戦五十周年全戦没者追悼法要を行った。そのときの法話で大谷光真門主は、次のような謝罪表明を、村山内閣に先立って行っている。 「私たちの教団は、仏法の名において戦争を肯定し、あるいは賛美した歴史を持っております。たとえ、それが以前からの積み重ねの結果であるとしても、この事実から目をそらすことはできません。」 「宗祖の教えに背き、仏法の名において戦争に協力していった過去の事実を、仏祖の御前に慚愧(ざんき)せずにはおれません。」 紙数の関係で詳しくはご紹介できないが、たしかに、戦前の真宗の戦争賛美は尋常ではなかった。それは宗教でないという理由で支那事変の勃発まで従軍がゆるされなかった神職の比ではなかったとも言える。だから、真宗が戦後的な価値観・戦争観に立つならば、門主がこのように言わなければならなかったのは無理からぬことである。

 このように見てくると、どうも今の「西本願寺」は、二つの罪意識によって雁字搦めになっているようだ。その一つは部落差別を行ってきたという事実、もう一つは近代の戦争に協力してきたという事実に由来している。この二つの罪意識に対する贖罪の思いから反神道的な左翼運動に駆り立てられているというのが、浄土真宗西本願寺派の現状らしい。そして、ふたふつの罪意識の重みに耐えかねて、その責任を「神道」になすりつけたい心理に陥っているようだ。最近になって、部落差別の原因として、「ケガレ」意識を強調する議論が現れてきて、神道的な、あるいは民族的な意識に注意を向けようとしているのも、そういうところに一つの要因があるのではないかと筆者は見ている。

 まるで、古代ヨーロッパで、フン族に圧迫されたゲルマン民族がローマ帝国になだれ込んでいったように、真宗上層部は罪意識に追い立てられて、神社神道に攻撃の矛先を向けている。つまり、自分たちの贖罪意識を満足させ、自らの反省の度合いを示す対象として、神社神道を攻撃しているというわけだ。

 自らも主体となって行ってきた部落差別という弁明の余地のない行為と、自衛・解放のために戦った大東亜戦争への評価とをごちゃ混ぜにすることは非合理も甚だしいし、まして、その責任を巧みに他者に転化しようとする態度は宗教者にあるまじき卑劣さだと思う。

 ただし、ここで認識を誤ってはならないのは、冒頭で引用した『真宗門徒と自治会』に書かれていることが事実だとすれば、末端の多くの真宗門徒は日本人としての常識的な感覚を持つ続けているということだ。ただ、それが「本願寺派」上層部の意向によって、素直に表現できず、抑圧されたり、ねじ曲げられたりしている。そうだとするならば、同じ日本人として、信仰の違いを超えて、手を差し伸べることが必要なのではないかと思う。

 なお、紙数の関係で、「基幹運動」の展開の歴史にはふれることができなかった。もう少し詳しく知りたいと思われる方は、本年十二月発刊予定の『政教関係を正す会会報』(第二十二号)に掲載予定の拙論「浄土真宗は靖國を語れるか」を御覧いただきたい。そうすれば、「基幹運動」に対して、「西本願寺」内部からも多くの疑問や批判が提出されている実態が御理解いただけると思う。(了)
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by nitta_hitoshi | 2009-09-11 12:54 | 雑誌